<7>
長屋の窓から、なだらかな傾斜地が見える。その上に並ぶ木々の足もとからこぼれ出すようにして福寿草が群生し、空にむかって黄金色の花をひろげている。花期が終わりに近づくと深い切れ込みのある葉が茂りはじめ、雑草と絡み合うようにして芝の枯色を少しずつ緑に染めていく。春がすぐそこまで来ているのが感じられる。
三月初めのことだった。私は、いつものようにダイスケの乗り運動を終え、体を洗ってから馬房に入れて飼い葉をつけた。そして、念のため、という感じで両前脚の屈腱炎の具合を手で確かめたとき、ドンと胸を叩かれたように感じた。
ダイスケの両前脚の患部が、ひどく熱を持っていた。
ここ何日か、曳き運動より負荷のかかる乗り運動をする時間のほうが長くなっていた。私は、鞍上から出す指示に馬が応えてくれる快感に酔い、
――この調子なら馬場を走れる日も近いだろう。
などと安易に考えていた。ところが、ダイスケの怪我はまだまだ回復途上で、私を背にして痛みに堪えていたのだ。
「すまない、ダイスケ……」
焼酎に浸した包帯を幹部に巻いた。ほんの数週間馬をあつかっただけなのに、私は慢心していた。そのままダイスケの脚もとにうずくまっていると、頭をゴンと叩かれた。ダイスケが口で突っついたのだ。
私は馬房の外に出た。ダイスケはまだ飼い葉を食べている。もっと恨みがましい目をして、文句のひとつも言ってくれると少しは気が安まるのだが、いつもと変わらぬ優しい表情のまま、ときおり私の顔を見ては食事をつづけている。
急に外が騒がしくなった。何事かと思って厩舎の外に出ると、馬場の入口に、二頭だての馬車が横づけされた。いつも牧場事務所に停められている馬車だ。
まず、丸眼鏡をかけ、軍服を着た男が馬車から降りた。下総御料牧場八代目場長、坂本忠道である。つづいて、私より少し年長の小柄な男が降りてきた。従業員の声から、彼が調教師の尾沢義光であることがわかった。数年前に始まった東京優駿大競走の一着から五着まで管理馬が独占したこともあり、「大尾沢」とも「日本競馬界のドン」とも呼ばれる伯楽だ。
坂本と尾沢、そして高橋が馬見台の上に立ったとき、隆史ときみおとエボジの三人が、馬に乗って馬場のほうに近づいて行った。その後ろから、体の大きな馬丁が、興奮して目を剥き、ツル首になった鹿毛馬を二人曳きでつれてきた。
ひととおり攻め馬は終わったはずだ。なのに、これから何があるのだろうか。
ほとんどすべての下乗りと馬丁たちが馬場の見えるところに移動していく。私も馬見台の近くまで行った。
坂本は何度も懐から懐中時計をとり出してはふたをあけ、時間を確認して仕舞い、またすぐとり出す……ということをせわしなく繰り返している。
「遅いなあ、立石君は」
と坂本がまた懐に手を入れたとき、街道のほうから地鳴りのような音がした。なんの音だろう、と思っていると、街道につながる門から黒い塊が敷地内に飛び込んできた。
「お、自動車だ!」
若い馬丁の興奮した声が響いた。鼻先が長く、四輪を覆う部分がこんもりと盛り上がった黒いフォードだった。フォードは馬道を凄まじい速度で走ってこちらに近づき、場長の馬車の手前で車体を横滑りさせて急停車した。
それに驚いたのだろう、大柄な馬丁が曳き手綱を持つ馬が首を大きく上下させ、尻っ跳ねをした。馬丁はむっとしているが、坂本と尾沢は苦笑している。
フォードの運転席から小柄で細身の男が降りてきた。年のころは私より少し若いくらいか。油でかためた髪を後ろに流した、見るからにキザな感じの男だ。
――あの男、どこかで見たことがあるな。
誰なのか思い出そうとしていると、男は助手席側に回り込んで観音びらきのドアをあけた。そこから男に手を引かれて出てきたのは、派手なドレスを着て、長い金髪を後ろで束ねた、若い外国人の女だった。
「おれ、自動車も外人も初めて見たぞ」
馬場の外埒ぞいに集まった下乗りや馬丁たちがざわめいた。
男と外国人が並ぶと女のほうが背が高いので滑稽だったが、男は胸を張って得意気な微笑を浮かべ、堂々としている。男は何ごとか女に言い、そして、人前だというのに女の顔をぐいっと引き寄せてくちびるをかさねた。
集まった下乗りや馬丁たちの間からオオッと声が上がった。
男は自動車の後部ドアをあけ、脱いだ上着を車内に放り込んだ。そして、ぴかぴかに磨かれた長靴を出して履き替え、鞭を手にし、白いカヴァーをしたヘルメットをかぶった。
その姿を見て思い出した。
立石秀。横浜の根岸競馬場や東京の府中競馬場などで活躍する一流の職業騎手だ。日本で生まれたのだが、中学生のときに渡欧し、英国、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコなどの競馬場で騎手として三十代前半までレースに出た。鐙を短くして、馬の首にしがみつくようにして乗る「モンキー乗り」を会得し、昭和の初めに帰国。帰国後は、本場仕込みの「立石モンキー」と言われる独特の騎乗姿勢で数々の大レースを勝っている。
その立石が何をしに来たのだろうか。
立石は、馬丁が口を持つ鹿毛馬に近づき、尾沢を見てその馬を指さした。尾沢がうなずくと、立石は馬上の人となった。そして、馬丁に口を持たせて周辺を歩きながら革ベルトを調整し、足をかける鐙の位置をさらに上に上げた。
その様子を、隆史ときみおとエボジはじっと見ている。きみおが目を丸くして隆史を見た。隆史がうなずいた。立石の鐙の短さについての目くばせだろう。あれでは、馬に跨るというより、馬の背の上に立つようなものだ。
あんなに短い鐙で馬を御せるのだろうか。普通は、もっと鐙を長くして、両脚で馬の胴体をはさむようにしなければ操作できない。今は力の強そうな馬丁が曳き手綱を押さえているからいいものの、彼が手を離したら、立石の馬は大暴れするだろう。もともと癇性がきついうえに、強い調教をつづけ、体が絞れてきたのでよけいにカリカリしている。
「オーライッ、トゥレイナー」
立石が巻き舌で言い、尾沢にむかって親指を突きたてた。「私はこのアプレンティスたちについていけばいいのかな?」
「大尾沢」に対してなんていう口の利き方をするのかと思ったが、尾沢はまったく気にしない様子で答えた。
「そうだ。ほかの三頭に先導させて十五-十五で行き、三分三厘から動いて、直線でおっぱなせ。お前が一番外を回るんだ」
立石の馬が馬場に入った。まだ馬丁が口を持っている。
隆史たちの三頭が馬見台前の直線走路を、まず左方向へとダクで進んでいく。馬丁が立石の馬の口につないでいた曳き手綱をほどいた。立石の馬は、首を左右にふったり尻っ跳ねをしながら三頭の後ろからダクでついていく。
高橋が馬見台から降りて、私の横に来た。そして、外国人の女に流暢な英語で話しかけ、女を馬見台の上に立たせた。
私は高橋に訊いた。
「これから何が始まるのですか」
「あの四頭は尾沢厩舎に入る予定なんです。いつ入厩させるかを尾沢先生がご覧になってお決めになります」
「立石騎手は何のために?」
「尾沢先生の代役です。いつもなら先生ご自身が乗られるのですが、腰を傷めたとかで」
大尾沢がじきじきに牧場で馬に乗るというのは意外だった。
「じゃあ、立石が乗っている鹿毛馬が一番の期待馬なのですか」
「いや、ご覧のとおり、うるさくて、能力的にも現時点ではほかの三頭より一〇馬身は後ろにいるはずです。どうして尾沢先生があの馬に立石さんを乗せたのかは、すぐにわかると思います」
と、口もとに笑みを浮かべた。
四頭は、直線の、私たちから見て左端で反転し、また馬見台のほうに近づいてきた。この調教は左回りで行われるようだ。四頭がちょうど私たちの目の前を横切ったとき、最後尾の立石の馬が突然後ろ脚で立ち上がった。一瞬の出来事だった。さすがの立石もふり落とされるだろうと思った。が、彼はいつの間にか鞭を口にくわえ、左手で手綱を持ち、右手で騎乗馬の耳の後ろのたてがみをわしづかみにしていた。彼は、たてがみをつかんだ右手を地面に叩きつけるように押しつけた。彼が乗る馬は、前脚を着地させ、鞍上に押された首をぐっと下げた。次の完歩でも、立石はたてがみを下に押しつけて馬に首を下げさせた。今度は馬が尻っ跳ねをした。すると、立石は凄まじい速さで騎乗馬の右肩に鞭を叩き込んだ。動きが速すぎて、私には、彼が口から右手に鞭を持ち替えるところを確認することができなかった。もう一度馬が尻っ跳ねをした。と、次の刹那、立石は馬の左肩にビシッと鞭を入れた。鹿毛馬は跳ねるのをやめた。馬場入り直後のように蛇行することもなく、まっすぐ走るようになっていた。
「す、すごい、あの人……」
見物している下乗りたちの間から声が聞こえた。
四頭が直線の右端まで行き、最初のコーナーを左に回った。次のコーナーを回り、向正面に入ると徐々に速度を上げ、十五-十五の速さで一列のまま進んだ。先頭がきみおの馬で、以下、隆史、エボジ、立石の順だ。
桜並木のむこう側を抜けたとき、きみおの外に隆史が並びかけ、その後ろで同様にエボジの外に立石が並びかけた。そうして二列になった四頭が第三コーナーを回った。先頭の内を行くきみおが手綱をしごいた。四頭の速度が一気に上がった。馬群が二列の隊列を保ったまま最終の第四コーナーに差しかかったそのとき、エボジの馬が外の立石の馬を弾き飛ばすように斜行し、前に出た。エボジの馬は、前を行く隆史の馬の外にぴたっとつけて四コーナーを回り、後ろの立石の進路にふたをする格好で直線に入った。
やはりエボジは上手い。こうして前をふさがれては、さしもの立石とて動けない。
ゴール地点まで残り三〇〇メートル。四頭の鞍上のうちきみおの動きが一番激しい。馬に余力が少ない、ということだ。その外の隆史の馬の手応えにはまだ余裕がある。
残り二〇〇メートルのところで隆史の馬が抜け出し、その外からエボジの馬が猛然と追い込みをかけた。立石の馬は、もともと能力が劣るのにくわえて、エボジに前をふさがれる不利が響いて最後方のままだ。
これで決まった。と思った次の瞬間、立石が手綱を短く絞り、上体をぐっと沈めた。そして、目にもとまらぬ速さで鞭を連打し、凄まじい迫力で騎乗馬の首を押した。ひらいた両膝を突き出して馬の首に張りつく「立石モンキー」の騎乗姿勢は、文字どおり猿のようだった。彼が乗る鹿毛馬は、別の命を吹き込まれたかのように四肢を大きく伸ばし、弾けるように突き抜けた。本来なら一〇馬身は劣るはずの馬が、前の三頭をあっさりかわし、五馬身以上も突き放してゴールした。
モンキー乗りは、前世紀の終わり、日本の元号で言うと明治の半ばごろにアメリカのトッド・スローンという騎手によって開発されたという。その日本随一の使い手をこうして見ることができた私は幸運なのかもしれない。それにしても、と思った。隆史は、小学生のときに出た馬術の全国大会で騎道少年団を一蹴した乗り手だ。また、エボジは裸馬を自在に走らせる天才である。そのふたりを、能力で大きく劣る馬でこうも簡単に負かしてしまうのだから、職業騎手というのは恐ろしい。この立石秀とて、日本の騎手の上位集団の一員ではあるが、真の王者というわけではない。いったい、職業騎手の頂点に立つ者の馬乗りの技術はどれほどのものなのだろうか。
四頭の馬が馬見台の前に戻ってきた。なぜか立石が鞭を二本持っている。
「立石はどうして鞭を二本持っているのかな」
私が言うと、高橋が、
「さっき、吉野が立石さんにかわされそうになったとき、鞭で殴りにいったんです」
「それを逆に奪われてしまった、というわけか」
立石が馬に乗ったままエボジに近づいていく。
「ヘイ、ボーイ」
立石がエボジに言った。「もっと練習して上手になりなさい。こういう生意気なことをするのは一〇年早いよ」
と、エボジに鞭を返そうとした。その表情からして、たいして怒ってはいないように見えたが、エボジが鞭を受けとろうと手を差し出したとき、立石はその鞭でエボジの口もとを殴りつけ、返す刀で手綱を持つエボジの手を打ちつけた。エボジの騎乗馬が驚いて飛び上がった拍子に、態勢を崩したエボジが落馬した。
立石は、騎乗馬から飛び降り、今度は隆史を鞭でさし、
「そのボーイも、あまりプロフェッショナルをなめちゃいけない」
と吐き捨てるように言い、自動車へと歩いて行った。
その様子を固唾を呑んで見守っていた下乗りと馬丁たちは、立石と尾沢と坂本が、それぞれ自動車と馬車で帰るのを見とどけてから散り散りになった。
馬場には四頭の馬と、隆史、きみお、エボジ、高橋、そして体の大きな馬丁と私が残っていた。エボジはこちらに背中をむけ、馬場に片膝をついて、殴られた口もとを手で抑えていた。背をむけたまま立ち上がり、ぺっと吐いた唾が赤かった。
「大丈夫か?」
と言う私を無視して、エボジは、うつむいたまま厩舎のほうに歩いて行った。よほど悔しかったのだろう、目には涙があった。
馬上のきみおが言った。
「タカ、おめえ、立石さんになんかしたのか? ほれ、あの人ちょっと怒ってたべや」
「別に、何もしてねえよ」
と言いながら、騎乗馬の顔をいったん馬場の内側にむけ、それから反転して埒の切れ目から外に出た。
「それにしても、立石モンキーっちゅうのはすげえべさ。あんなしてパッと軽く乗るっちゅうか、なんちゅうか、おらにはとてもじゃねえがまねできねえ。あのくれえになると、自動車ば買えるぐらい稼ぐんだなあ」
「うん。まあ、上手えことは上手えけど、二〇年も乗り役をやってりゃ、あんもんじゃねえの? 騎道少年団にだって、あのくらい乗れる人がいたしさ」
と隆史は、自らの鐙に手を伸ばした。そして、くるぶしと両膝の内側にはさんでいた木の葉をとり出した。
きみおが驚いて声を上げた。
「タカ、こんなときまでそったら練習ばしてたのか。だから立石さんがバカにすんなって言ったんだわ」
彼らのやりとりを聞きながら、厩舎前まで来た私は、
「厩舎長、ちょっといいですか」
と高橋に声をかけた。「ちょっとダイスケの具合が悪いのです。エビハラのところが熱を持っているようなので、診てもらえますか」
高橋はダイスケの馬房に入り、両前脚の包帯をほどいて腱をさするようにつまんで、小さく唸った。
「この前よりよくなっていますよ」
「え?」
「確かに熱を持ってはいますけど。こっちの馬の脚をさわってみてください」
と、高橋は隣の馬房の馬の左前脚の包帯をはずした。私は彼の横にしゃがみ、その馬の腱に手を近づけた。燃えるように熱い。手をゆっくり上下させると、患部とそうでない部位との温度差がよくわかる。私はダイスケの患部にも同じように手を当ててみた。隣の馬に比べると、熱はかなり低い。「もっと、普段から馬にさわってあげてください。遊学経験のある騎兵将校から聞いたのですが、欧米人が動物をなでるのは、たんにかわいいからではないというんです。どこか悪いところがないか調べる意味もあってなでるそうです」
「そうですか……。ダイスケの怪我が悪化していなくて、本当によかった」
私が鼻づらをなでると、ダイスケはゆっくりと目をとじた。

