現在位置 : TOP > 第26回さきがけ文学賞 > 選奨「下総御料牧場の春」





<10>

 成田の病院にはこばれた隆史は、意識が戻らないまま東京の大学病院に転院した。頭蓋骨と左腕を骨折したとのことだった。

 馬丁の中井の顔に傷がある。またエボジとやり合ったようだ。御料牧場からときどき馬がいなくなるのは中井の仕業ではないかという噂があった。今の立場を利用して馬喰まがいのことをして荒稼ぎしているのではないか、と。

 朝、中井が馬丁仲間と輪になって何やら小声で話していた。彼の目には、昏い光が浮かんでいた。私に気づくと、中井はその目の光をふっと消し、にやりと笑った。

 その夜、妙な胸騒ぎがして眠れなかったので、日付が変わってから厩舎の周りをぶらぶら歩いてみた。静かな夜だった。そう言えば、耳を澄ますと植物の芽の動く音が聞こえてくる、と末造が言っていた。

 私は、長屋の玄関と反対側の、居間につながる濡れ縁に出た。北側の傾斜地からここの庭にかけての草地に自生する福寿草が終わったあとは、雪割草の花が薄紅色の絵の具を散らしたように咲きさかり、風の通り道に沿って咲く肥後スミレの白花との対比が、月明かりの下で美しい。

 置き石に腰かけて、空に浮かぶ月を見上げた。ここで耳を澄ませば、馬場に沿って植わった桜並木の蕾のふくらむ音も聞こえてくるのだろうか。

 この長屋には、ひと部屋ずつ空き部屋をはさんで三所帯が入っている。私以外の二所帯はともに母子家庭だ。いつもにぎり飯を用意してくれるトミの部屋の庭には食用の油菜やヨモギ、小松菜、そら豆、蕗などが植えられ、収穫の時期を待っている。

 厠で用を足してから自分の部屋に戻り、書斎のランプをつけた。次の瞬間、腰を抜かしそうになった。人が倒れている。いや、眠っている。うーん、と唸りながらこちらをむいたのは、きみおだった。

「あ、すみません」

 ときみおが薄目をあけ、上体を起こした。

「いや、そのままでいいよ」

 私が手で制すると、彼はまた寝息をたてた。

 本が好きなきみおは、ときどきここに遊びにくるようになっていた。気持ちよさそうに眠るきみおの寝顔を見て、誰かに似ていると思った。幼なじみか、大学時代の仲間か。布団を敷くのが面倒だったので、座布団を枕にして畳の上に横になった。ほんの二、三度まばたきをしたつもりが、いつの間にか寝てしまった。

 外が明るくなっていた。すでにきみおの姿はなかった。

 馬丁の中井が数名の仲間と厩舎前に集まっている。彼らはひとりでいるときとは別人のように堂々としており、馬上のエボジに一瞥をくれてから、きみおの姿を目で追った。

 その夜も、仕事を終えたきみおが部屋に来た。

「ゆんべは黙って上がり込んで、すみませんでした」

 正座をして頭を下げるきみおに、

「なんもなんも、気にすんな」

 と彼の言い方をまねて応じると、

「おら、そったらなまってねえです」

 と笑い、書棚の前に立った。

「きみお君は、いつごろ競馬場の厩舎に行けそうなんだ?」

「今年の夏前ぐらいだと思います。こないだ福島競馬場から調教師の先生が来て、そう言ってました」

「ここの仲間と離ればなれになるのは寂しいと思わないかね」

「そりゃ寂しいです。だども、ここさ来たのは馬乗りの修業ばするためです。ここば卒業して競馬場さ行けるのは、本当は嬉しいことなんです。山口さん、変なこと言わねえでくれ。みんなと離ればなれなんて言われたら、おら、急に悲しくなってくるべさ」

 音がするほどまばたきして言った。

「それにしても、馬というのは不思議だね。ダイスケの世話をしながら、どうして自分は馬のためにこんなに一生懸命になってしまうのかな、と思ってね」

「おら、思うんですけど、人が馬っこのことさ好きになるのは、きっと、馬っこが人のことさ好きだからです」

 正座したままこちらに膝を寄せ、言った。「これ、誰にも言わねえでください」

「何を?」

「おら、ここさ来る前、お客さんの入ってる競馬場で馬さ乗ったことがあるんです。馬喰の見習いさしてるとき、黄金競馬場の厩舎でこっそり馬さ跨ったら、その馬っこが暴れ出したんです。おら、馬っこば抑え切れなくて、そのまま向正面から馬場さ入って、観客席のほうさ走っていったんです。そうしたら、びっくらこいたお客さんがワーッて歓声さ上げて……。最後のコーナーば曲がると観客席がう~んって近づいてきて、お客さんの声がどんどん大きくなって、それば思い出すと、今も胸がドキドキしてくるんです」

「その感覚が忘れられなくて騎手を目指すようになったのか」

「はい。あんとき、調教師の先生にも馬丁さんにも、馬喰の師匠にも火が出るくらい叱られました。ふざけるなと怒ったお客さんいたみたいです。でも、おらが乗った馬っこだけはすごく喜んでくれたんです。おらがまちがって馬場さ出たこと許してくれて、また背中に乗ってくれって言ってくれたんです」

「いい話じゃないか。厩舎長や下乗りの仲間に言ったってかまわないだろう」

「ダメです、ダメです」

「きみお君は、府中や中山の競馬場には行ったことがないの?」

「ねえです。ここの下乗りで東京や横浜の競馬場さ行ったことがあるのって、タカぐらいだべな。タカは東京競馬場が目黒にあったとき、一番最初の日本ダービーば見て、騎手になるのを決めたって言ってました」

「そうなのか。早く治るといいな」

「タカみたいのを天才って言うんだと思います。おら、地元の草競馬でなんべんも優勝して、農家のひどい暴れ馬ば数え切れないくらいおとなしくさして金ば稼いで、自信満々でここさ来たんです。だども、タカの馬乗りばひと目見て、かなわねえと思いました」

「何がそんなにちがうのかな」

「ん~、口で言うのは難しいんだども、タカの馬乗りには品があるっちゅうか、すっとしてるっちゅうか。エボジもそう言ってました。馬乗りの腕さ比べたら互角だども、それ以外の何かでタカには負けちまうって」

 初めて会った日の隆史の軽い身のこなしが思い出された。さらに、馬の背に張りつくような騎乗姿勢、鞭をふるうしなやかな腕の動き、そして馬上にいるときのかがやく目が脳裏によみがえる。彼を見ていると天職というのは本当にあるのだなと思う。煌めく才能が極限まで生かされるただひとつの道。だが、今の彼は、そのひらかれた道を前に立ちどまらざるを得ない状況に追い込まれている。