現在位置 : TOP > 第26回さきがけ文学賞 > 選奨「下総御料牧場の春」





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 明治の初めに大久保利通卿がこの地を視察して用地を決定し、それが下総御料牧場の前身になったという。大久保卿がここを訪れたのも春だったのではないか。

 来週、ここで「下総駒祭り」という草競馬が行われる。エボジやきみおも参加するのだろうか。だとしたら、隆史の不在が残念でならない。あの三人が能力の拮抗した馬に乗って競ったら、さぞかし見応えのあるレースになっただろう。

 昼休み、野菜畑の北の草地に寝そべった。春の陽のあたたかさを全身に感じる。目をとじると、澄んだセキレイの声が聴こえてきた。今年初めて春の音を聴いた気がした。

 夜、高橋に呼ばれて場長官舎を訪ねた。一階の応接間は、宮内省の関係者や外国から招いた農業技師の接待などにも使われるらしい。細い足が四本生えた飾り棚や、天使が戯れる様を笠に彫りこんだランプなど、一見して舶来物と知れる洒落た調度品が揃っている。床にはびっしりと濃い臙脂の絨毯が敷かれ、雲を踏んでいるかのようにふかふかだ。

 大きな肘かけのついた椅子に腰かけて待っていると、階段を降りてくる高橋の足音が聞こえてきた。外出着のままなのだろう、彼は英国王室の門番が着るようなブレザーにズボンといういでたちで、羽飾りのついた黒い帽子を手に持っていた。

 女中が、紅茶や菓子などをテーブルに置いていった。

 高橋が言った。

「今夜はお呼び立てして申し訳ありません」

「いえ。きみお君のことには驚きました」

 用向きはそれだろうと思い、私は言った。

「あの子、山口さんを頼りにしているようなので、よろしくお願いします」

「いや、頼りだなんて……」

 私の言葉が終わらぬうちに、彼が言った。

「実は、彼女は私の姪なんです。山口さんには、もっと早くお伝えしておくべきでした」

「そうなんですか」

「もうひとつ、きょうお話ししたかったのはダイスケのことなんです」

「ダイスケが、何か」

「来週の草競馬に出走させようと思っています。山口さんが一生懸命世話をしてくださったおかげで、脚もとの具合がずいぶんよくなりましたから」

 なぜそれをわざわざ呼び出して言うのだろうと思っていると、彼がつづけた。「勝ったら報奨金を出すと場長が言っています。三百円です」

「そ、そんなに……」

 東京でも一年以上遊んで暮らせる金額だ。

「ダイスケが勝ったら、怪我をした競走馬を治療してまた競馬場に送り出す新事業を始めようと場長は話しています」

 まだもらえると決まったわけではないが、場長の坂本も高橋も、報奨金の三百円で私が千葉での生活の基盤を築き、ここに永住すべきだと思っているのではないか。

 高橋がウヰスキーをグラスに入れてくれた。口にふくむとひりひりするような苦みがひろがり、喉を熱くしたひと筋の流れが食道を通ってまっすぐ胃に落ちていく。

 窓の、シャンデリアの灯が当たっていない部分から、牧場事務所の車寄せと正門とをつなぐマロニエ並木が見える。青っぽさが残る夜の空間に、木の形をした闇がしみ出してきたかのようだ。その木の闇が突如として形を変え、小さくふるえた。

「春は、風が動く季節なんですね」

 高橋がひとりごちるように言った。

 それから一時間ほどとりとめのない話をし、三杯目のグラスが空になったところで、私は場長官舎を辞した。