TOP > 特集・連載 > 白瀬・南極探検100年 > 連載企画 > 極限・隕石探査 秋田大OBの軌跡 > 記事

白瀬・南極探検100年

連載企画

極限・隕石探査 秋田大OBの軌跡

[山頂の涙]

後輩が任務引き継ぐ 世界一奪還の期待背に

隕石探査で世界をリードしてきた矢内桂三(左)とその後継者小島秀康

 秋田大鉱山学部OB・矢内桂三率いる第29次南極観測隊の隕石(いんせき)探査チームが、セール・ロンダーネ山地でクレバス落下事故を起こしてから約10年間、日本隊の隕石探査プロジェクトは中断を余儀なくされた。1998年に第39次隊で隕石探査を復活させたのは、秋田大の後輩・小島秀康だった。

 この年、小島率いる8人の探査チームは、やまと山脈に加え、初めてベルジカ山脈にまで足を延ばし、4180個というかつてない大量の隕石を採集した。大陸氷床の流動が山でせき止められる場所が隕石探査のフィールドである限り、クレバス落下の危険とは常に背中合わせだ。小島は慎重に安全対策を練った上で、10年ぶりの探査を大成功に導いたのだった。

 探査チームには、当時秋田大鉱山学部技官だった佐藤安弘がいた。電機の専門技術とロッククライマーとしての腕を買われ、2回目の南極観測参加だった。3カ月半続いた探査の終盤、やまと山脈のピークの一つに登った時に、佐藤は小島が涙を流しているのを見た。

 「矢内さんが自分を南極に導いたこと。事故後の矢内さんの身に起こったこと。小島さんの胸には、いろいろな思いが込み上げているのだろう」。佐藤はそんな風に思った。


 クレバス落下事故の後、矢内はすべての責任を背負って南極観測の前線から身を引いた。そして自らが採集してきた隕石をすべて整理し終えた95年、静かに国立極地研究所を去った。

 「僕は人と話すのが苦手。高校生のころは博物館に勤め、岩石を相手に一生暮らしたいと思っていた。その夢が今になってかなった」

 極地研退職後に勤務した岩手大を一昨年、退官した矢内は今、妻と5匹のアメリカンエスキモー犬と一緒に盛岡市に暮らしている。自宅敷地には、世界各地で集めた珍しい岩石や、南極のパネル写真などを展示した小さな博物館をつくった。

 「南極隕石は、言語を絶する厳しい条件下でしか得られない。あの厳しさの中にこそ何かがある。このことを理解してもらうのは、隕石を見つけるよりも難しいかもしれない」

 極限の自然の中、命をかけて隕石を求め続けてきた矢内はこう語った。

 小島たちが4千個を超える隕石を採集した2年後にも、日本隊はやまと山脈で3554個を集めた。その後、日本隊は標高3800メートルのドームふじ基地で氷床掘削を行うプロジェクトに集中するため、隕石探査を休止した。この間、米国は矢内の指導の下で探査を始めた南極横断山脈で成果を挙げ続け、2008年には隕石保有数が約1万7300個となり、日本の1万6201個を上回った。


 第51次隊は今年、10年ぶりに隕石探査を再開する。「保有数世界一奪還」の期待を背に、小島は探査チームを率いてセール・ロンダーネ山地へと向かう。ターゲットは山地東端のバルヒェン。20年前、矢内たちが巨大クレバスに阻まれ、たどり着くことができなかった場所だ。58歳の小島にとって、これが最後の隕石探査となりそうだ。

 隕石には、今から46億年前に、太陽系の星たちが誕生した当時の情報が刻み込まれている。南極大陸で日米観測隊が集めた大量の隕石は、宇宙の成り立ちの解明に挑む世界中の科学者たちにとって、欠かすことのできない研究素材だ。

 日本は再来年以降も隕石探査を続ける予定。保有数をめぐり、米国としのぎを削ることになる。氷の大陸で、宇宙の歴史を刻んだ石を探し求める隊員たちのドラマは、これからも続く。

(敬称略)

(南極観測同行記者・安藤伸一)

(2009/10/02 更新)

動画

連載企画

リンク