連載企画
雪原への道 第1部・屈辱と友情
紙面で応援、疑念一掃
1911年5月、氷に閉ざされた南極海から失意のうちに引き返し、白豪主義のオーストラリアで偏見にさらされていた白瀬矗(のぶ)の探検隊に、救世主が現れた。シドニー大学の著名な地質学者T・W・エッジワース・デービッド教授。英国のアーネスト・シャクルトン率いる南極探検隊に加わり、エレバス山(3794メートル)登頂や南磁極発見などの成果を挙げた、極地探検の先駆者の一人である。
シドニーでは「日本の探検隊を名乗っているが、実は軍事スパイではないか」などという報道が続いていた。そんな中、デービッド教授はデイリー・テレグラフ紙のインタビューで、開南丸が冬が間近な時期に南緯74度付近までたどり着き、無事引き返して来たことをたたえ、「勇敢な探検隊である」と紹介したのだった。
シドニーの人気者に
デービッド教授のこうした言動により、シドニーの人々の白瀬たちを見る目が変わった。パースリー湾にある探検隊のキャンプ地を、菓子や花などの土産を携えた市民が続々と訪れた。隊員たちは訪問客を日本料理でもてなし、探検隊のファンとなった女学生の家に招かれることもあった。白瀬が著した「私の南極探検記」によると、白瀬はシドニーの令嬢から結婚を申し込まれたこともあったという。探検隊は、シドニーの人気者となったのだ。
デービッド教授は新聞で白瀬たちを好意的に紹介しただけでなく、自らが南極探検で得た知識を、惜しみなく授けた。資金難で物資の調達に苦労していた探検隊に、経済的な支援もしたとされる。
手紙で感謝の気持ち

同年11月、再び南極大陸に挑むためシドニーを離れる時に、白瀬は隊の幹部と連名でデービッド教授に感謝の気持ちを素直につづった手紙を送っている。シドニーのオーストラリア博物館に保管されている手紙にはこうある。
「シドニーに当初、到着した時には、我々の冒険が一時挫折したことで全員失望の境地にあり(中略)…。
貴殿は我々の誠意を貴殿の名声によって保証し、科学の世界の仲間として遇してくださいました。我々は冒険の成否がどうあれ、貴殿のことは決して忘れません」
オーストラリアの首都キャンベラ郊外に住むデービッド教授のひ孫、アンソニー・スミスさんは、白瀬とデービッド教授の交流についてこう語る。「危険を冒してまでも科学を追究する者として、曾祖父は日本の探検隊を尊敬していた。科学に対する敬意の前には、人種や国籍は関係なかったのだろう」