連載企画
雪原への道 第6部・夢は続く
観測隊に精神息づく
1946年9月4日、白瀬矗(のぶ)は波乱に満ちた85年の生涯を終えた。臨終の地は愛知県挙母(ころも)町(現豊田市)。困窮にあえぎながら、転居を重ねた末にたどり着いた鮮魚店の2階の小さな部屋だった。死因は栄養失調に腸閉塞(へいそく)が重なったためとされる。日本初の南極探検という偉業を成し遂げた英雄にとって、寂し過ぎる最期だった。
現在、白瀬が亡くなった旧挙母町の鮮魚店跡地には「白瀬中尉終焉(しゅうえん)の地」と刻まれた石碑がある。揮毫(きごう)は第1次日本南極観測隊長永田武だ。白瀬の遺志を継ぐかのように、国家事業としての南極観測を初めて指揮した永田は、くしくも挙母町に生まれた。
永田が南極行きを実現させるまでの道のりは、白瀬と同様に険しかった。
国際地球観測年(IGY)を2年後に控えた55年、ベルギーで開かれたIGY総会で東大教授の永田は厳しい非難にさらされた。国際的な枠組みで実施する南極観測に参加しようという日本に対し、オーストラリアとニュージーランドが「日本に国際舞台に復帰する資格はない」と反発したのである。第2次世界大戦の敗戦からまだ10年。戦勝国の遺恨は根強かった。
よりどころは白瀬隊
この時、永田がよりどころとしたのは白瀬隊の実績だった。ロス棚氷を南緯80度05分まで南進し、キング・エドワード7世ランドに上陸してアレキサンドラ山脈に初めて登った先人の経験について、永田は各国代表の前で力説した。
結局、日本の参加は認められたが、観測地域に割り当てられた東南極のプリンス・ハラルド海岸は、米海軍により「接岸不可能」と報告された場所だった。かつて米国、英国などが7回上陸を試みたが、広大な海氷に阻まれすべて失敗していたのである。57年1月、永田率いる第1次観測隊を乗せた耐氷船「宗谷」が、氷に覆われた同海岸のリュツォ・ホルム湾に進入し、オングル島に接岸できたのは奇跡的なことだった。
この年オングル島に建設した昭和基地に残り、日本初の越冬観測を指揮した第1次越冬隊長西堀栄三郎もまた、白瀬に導かれるように南極にたどり着いた。
講演会で探検に憧れ
西堀は11歳の時、京都の南座で開かれた白瀬の講演会を聴いている。南極探検で膨大な借金を背負った白瀬はこのころ、全国を講演行脚していた。未知なる世界を探検することに憧れた西堀少年は「いつか南極に行ってみたい」と思うようになった。

やがて登山家として、また産業界に近代的な品質管理手法を持ち込んだ先駆的な技術者として著名な存在となった西堀は、永田に請われて第1次隊に参加したのである。
歴史のはざまに埋もれていた白瀬の偉業は、戦後の南極観測事業とともによみがえった。2008年まで活躍した3代目南極観測船の名が「しらせ」だったのに続き、一昨年就役した4代目観測船も「しらせ」と名付けられた。白瀬の名は、今や南極観測の象徴である。
強靱(きょうじん)な意志で逆境を切り開き、少年時代の汚れない夢を実現させた白瀬。そのスピリットは、白い大地で地球の謎の解明に挑む観測隊の営みの中に息づいている。
<連載「雪原への道」終わり>