[第2回]

望郷の民謡酒場・上

(2017年5月19日 掲載)
東京・浅草にある小梅茶屋。4月21日夜「民謡酒場で猥歌を聴く呑み会」が開かれた

浅草で秋田の艶歌を聴く

 「こんなに若い人がいっぱい来るなんて、びっくりだな」

 2017年4月21日、東京・浅草にある民謡酒場「小梅茶屋」は20代から40代の客で満員である。女性のお客さんも多い。本日の主役・小松貞雄こと、田口利男さんは三味線を片手に舞台の上から語りかける。

 「俺は秋田から東京に出てきて60年近くなるけど、いまだに標準語が話せません」

 利男さんの飄々とした秋田訛りの口上に会場から笑いが起こる。そして、利男さんの妻で女将の小梅のり子(本名・記子)さんが太鼓を持って登場して演奏が始まった。

 この日は遊廓史をメインにした書籍の販売、復刻を手掛けるカストリ出版の渡辺豪代表が主催する「民謡酒場で猥歌を聴く呑み会」が開かれていた。秋田民謡の裏バージョンというべきエロティックな猥歌(艶歌、春歌)を生演奏で聴くと同時に、まもなく41年の歴史を閉じる「小梅茶屋」の雰囲気を酒と肴を交えて愉しむ会でもある。

利男さんの三味線に合わせ、記子さんが太鼓をたたく

 「ちょこっとだけ、エッチな歌詞が入るからね」。利男さんは秋田音頭の節回しで歌い始めた。

 「一助、二助、隣の三助、おめまだ何だけな。人の骨折って開けた穴コさ、何しにマラ入れだ」

 「女という人綺麗な顔して男を生で飲む。男という奴バガな奴で飲まれて鼻垂らす」

 客席からは囁くような笑い声が聞こえる。利男さんが壇上から「意味わがる?」と尋ねると最前列のお客さんが苦笑いを浮かべて「なんとなく」と答えた。

 「昔は秋田音頭をみんなこんな節で歌っていたんだよ。今みたいになったのは民謡歌手がコンクールに出るようになってからだな」

 私は東京で演奏される秋田民謡は都会らしく洗練されているのではと思っていたが、利男さんの唄と演奏にはまるで田舎のおじいちゃんが歌っているかのような素朴な味わいがある。土の香りを感じさせる秋田民謡を、浅草寺から1キロも離れていない東京の下町で聴けることが不思議でならなかった。

上京して民謡と出会う

秋田弁で民謡を唄う利男さん

 田口利男さんは1940(昭和15)年11月、旧淀川村小種(現大仙市)の農家に男女7人兄弟の末っ子(三男)として生まれた。

 第2次大戦後、秋田県は人口の増加が続き、1956(昭和31)年に135万人に達した。特に農村部では次男、三男の就業問題が深刻化する。過剰人口となった若者たちの受け皿となったのが、労働力の需要が高まっていた京浜地帯である。

 日本経済の高度成長期であった昭和30年代、「金の卵」と呼ばれた若年労働者を中心に全国の地方の若者が集団就職などによって大都市や工業地帯に集まっていた。秋田県でも農山漁村から若年労働者が大量に県外へ流出し、これによって次男、三男問題は一気に収束したが、今度は逆に過疎という問題が発生することになる。

 利男さんが上京したのは1959(昭和34)年。赤羽にいる親戚の家に身を寄せて板橋のソース工場などで働いた。東京暮らしに慣れてきた頃、利男さんよりも2年早く東京に出てきていた兄の勧めで秋田民謡を習い始める。1961(昭和36)年に民謡の全国大会に出場した際、忘れられない光景を目にした。

 「会場に『小松みどり』と書かれた花輪がずらりと並んでいたんだよ。いったい誰なのかって気になって」

 それから間もなく小松みどりが出演しているという吉原の民謡酒場「秀子(ひでこ)」を訪ねた。そこで目にした彼女のステージに利男さんは心を奪われた。旧南外村(現大仙市)出身の民謡歌手・小松みどりは、夫で同じく歌手、演奏家の佐々木貞勝(旧太田町、現大仙市出身)と共にビクターレコードの専属歌手であり、全国大会の優勝経験もある民謡界きってのスターであった。

 全国大会では「箸にも棒にも掛からなかった」という利男さんは、小松みどりの唄を聴いたことがきっかけで本格的に民謡の道を歩もうと決意した。

 早速仕事を辞めて「秀子」の下足番として働くかたわら、佐々木、小松夫妻の教えを受けるようになった。利男さんの民謡人生が幕を開けたのだ。

日本一の遊廓から民謡酒場の町へ

浅草の国際通り沿いにある小梅茶屋。この道を約600メートル北上すると吉原だ

 江戸時代から国内最大の遊廓が置かれていた吉原には、1958(昭和33)年に売春防止法が施行された頃から秋田や津軽の民謡を聴かせる酒場が次々とできていった。「秀子」はそのうちの1軒で、経営者は大館市出身の民謡歌手、演奏家であった日景寛悦。1960(昭和35)年に開店し、秋田県出身の小松みどり、佐々木貞勝をはじめ、青森県出身で後年「千恵っ子よされ」をヒットさせる岸千恵子などの人気歌手が在籍した。

 吉原の民謡酒場を詳しく書いた「民謡酒場という青春」(2010年、山村基毅、ヤマハミュージックメディア)によると、売春防止法によって廃業を余儀なくされた妓楼が旅館やアパートなどに転業する中で、いくつかが民謡酒場になったのだという。「秀子」をはじめ民謡酒場の多くはかつて妓楼だった建物を使って営業していた。ちなみに吉原にトルコ風呂(ソープランド)が乱立するようになったのは昭和40年代後半以降である。

 民謡酒場を贔屓にしていた客の多くは地方出身者であった。懐かしいふるさとの唄や言葉に浸りたい人々が吉原に集ってくるようになった。売春防止法と高度経済成長の時期が重なったタイミングで、紅灯の遊廓が望郷の民謡酒場の町へと変貌したのである。

(続く)

小松 和彦(こまつ・かずひこ)
 1976年秋田市生まれ。青山学院大文学部史学科(考古学専攻)卒。在学中に東北アジアの学術発掘調査に参加。99年カンボジアのNGO活動に参加したのをきっかけにアジア・アフリカの民族文化や手仕事に関心を抱き、各地の美術工芸品の収集・販売を始める。2006年父の跡を継ぎ、秋田駅前で工芸品を展示・販売する小松クラフトスペース代表に就任。11年から秋田県内の遊郭・色街の調査活動を始め、16年に「秋田県の遊廓跡を歩く」(カストリ出版)を刊行。「縄文文化」「世界の民族工芸」「遊廓」などに関するレクチャーを京都、秋田の美術大学や博物館などで行っている。