[第3回]

望郷の民謡酒場・下

(2017年6月19日 掲載)
「小梅茶屋閉店の宴」の手描きポスター

小梅茶屋の終焉

 1963(昭和38)年、吉原の民謡酒場「秀子」の人気歌手・佐々木貞勝、小松みどり夫妻は独立し、同じ吉原に「みどり」を開店する。弟子の田口利男さんも師匠の二人を追って「みどり」で働くことになった。最初は会計や雑用をこなす毎日だったが、次第に舞台に上がるようになる。

 「佐々木先生が酔っぱらうとお客さんが帰る前に寝てしまってな。そんなときに先生の代わりに三味線とか尺八をやるようになったのさ」

 1970(昭和45)年には師から小松貞雄の芸名を授けられた。その頃、ビクターレコードから発売された小松みどりのレコードに利男さんも小松貞雄として三味線で参加している。

 ある日、利男さんは当時の競馬界で人気、実力ともにナンバーワンだったハイセイコーに単勝で賭けることにした。しかし手持ちのお金がなく店で働いている女の子に駄目元で「1万円貸してくれ」と頼んだところ、気前よく貸してくれた。「必ず勝つから倍にして返せる」。そうして臨んだレースは読み通りハイセイコーの勝利だったが、結果は単勝元返し(賭けた金額しか返ってこない)という期待外れのオチだった。だが、これを契機に二人の仲は親密になる。この女性こそ、利男さんの妻となる小梅のり子こと記子(のりこ)さんだ。

 記子さんは1942(昭和17)年、北海道北見市生まれ。東京に出てきて縫製の仕事などをしていたが、好きだった民謡の道に入り「みどり」で働くことになった。

 「うちの娘が小さい頃にね、『タケヤ味噌のCMに出ているのはお母さんなの?』ってよく聞かれたのよ」

 そう言ってはにかむ記子さんはたしかに女優の故・森光子さんにどこか似ている。記子さんという最高の伴侶を得た利男さんは「みどり」を辞めて独立。1977(昭和52)年に吉原から少し離れた浅草に「小梅茶屋」を創業した。

利男さんと記子さんの息はぴったりだ

 「民謡酒場という青春」(2010年、山村基毅、ヤマハミュージックメディア)によると昭和50年代、吉原周辺の民謡酒場は既にブームが去った後だった。その理由の一つが盛り場におけるカラオケの普及である。しかし「小梅茶屋」は時代の変化に柔軟に対応していた。開店当初から民謡酒場でありながら、カラオケ機も備えてあったのだ。

 「店を始めてから5、6年はホント忙しかったな。開店の6時から夜中の3時までずうっとお客が絶えない時も珍しくなかったよ」

 しかしその賑わいは2000年頃には消えていたという。「小梅茶屋」がオープンした頃、吉原と浅草には10軒以上の民謡酒場があったが、現在は3軒となった。記子さんは言う。

 「最近ではお茶をひく(お客が来ない)日もあってね。これも時代の流れなのかな」

 「小梅茶屋」の店内は今でも昭和の雰囲気が漂う。一つの時代が終わろうとしていることをしみじみと感じさせられた。

唄にふるさとを想う

小梅茶屋開店当初からの常連の加藤三千男さん(中央)と辰夫さん(左手前)。会社経営者となった今も秋田民謡は心の支えだ

 「民謡酒場で猥歌を聴く呑み会」の参加者に混じって、「小梅茶屋」の開店当初からの常連さんが二人来店していた。利男さんと同郷(大仙市協和小種)の加藤辰夫さん、三千男さんのご兄弟だ。お二人とも埼玉県で工場を運営する会社の取締役である。

 「では、何曲か歌わせてもらいます」

 利男さんが弾く三味線の伴奏で辰夫さんは自慢の喉を披露した。二人は同じ1940(昭和15)年生まれ。同郷の誼(よしみ)で、多いときには毎週のように通われているというだけあり、二人の息はぴったりだ。

 辰夫さんが歌っている間、弟の三千男さんに話を聞いた。三千男さんは農家の三男として1944(昭和19)年に生まれた。地元小種の中学校を卒業後、既に東京に出てきていた次兄の辰夫さんを頼って上京し、プラスチック工場などで働いた。

 高度経済成長期まっただ中の昭和30年代半ば、工場は毎日フル稼働で残業は当たり前。休みは「1カ月に1度あればいい方だった」という。過酷な労働の日々を送っていた三千男さんにとって民謡酒場は安息の場所であった。

 「仕事で躓いた時や辛くなった時は、いつも秋田民謡を聴いていたよ」

 そして会社経営者となった今でも、民謡は心の支えになっているという。

 「ふるさとの唄を聴けば、『よーし、明日も頑張るぞ』っていう元気が出るんだよ」

 宴もたけなわになった頃、私は「利男さんにとって秋田民謡とは何でしょうか?」という質問をぶつけてみた。利男さんは遠くを見つめるような視線で語った。

 「民謡を歌っていると、秋田の風景が目に浮かんでくるんだ。自分の生まれ育ったふるさとのことを思い出させてくれる。それが民謡の良さですよ」

 利男さんや加藤辰夫さん、三千男さん兄弟はみな農家の次男、三男として生まれ、宿命的に十代でふるさとを出なければならなかった。高度成長期、秋田の農村から東京へ働きに出て来た若者たちの心を支えたふるさとの民謡。それはまさに望郷の歌であった。

民謡人生の幕は下りない

小梅茶屋を閉めても、利男さんの民謡人生は続く

 小梅茶屋が閉店してから1週間後、私は利男さんに電話をかけた。閉店した後の心境について尋ねると「やはり寂しいですね」とあまり元気のない声で答えた。

 6月から利男さんと記子さんは娘さんの嫁ぎ先である新潟市へ転居する。新天地でどういったことがやりたいかを聞いてみた。

 「民謡をやりたいと思っている。何十年もそれ一筋でやってきたからね」

 そう話す利男さんの声は力強かった。田口利男さんこと、小松貞雄の民謡人生はこれからも続いていくのだ。

小松 和彦(こまつ・かずひこ)
 1976年秋田市生まれ。青山学院大文学部史学科(考古学専攻)卒。在学中に東北アジアの学術発掘調査に参加。99年カンボジアのNGO活動に参加したのをきっかけにアジア・アフリカの民族文化や手仕事に関心を抱き、各地の美術工芸品の収集・販売を始める。2006年父の跡を継ぎ、秋田駅前で工芸品を展示・販売する小松クラフトスペース代表に就任。11年から秋田県内の遊郭・色街の調査活動を始め、16年に「秋田県の遊廓跡を歩く」(カストリ出版)を刊行。「縄文文化」「世界の民族工芸」「遊廓」などに関するレクチャーを京都、秋田の美術大学や博物館などで行っている。