[第4回]

鶴松がいた五城目・上

(2017年7月14日 掲載)
畠山鶴松が著した「村の落書き」。1984年に初版されただけで現在古書でしか入手できない

「村の落書き」の世界

 郷土史関連の本を読みあさっていると時折思わぬ収穫がある。「村の落書き:鶴松爺の絵つづり雑記帳」(1984年、無明舎)はまさにそんな一冊である。

 この本は五城目町富津内下山内生まれの畠山鶴松(1895~1986年)が自ら体験、見聞きした村の生活や年中行事などについて文章と絵で残した記録を、郷土史研究家の小野一二が翻刻したものだ。南秋田郡に関する資料を調べている時に偶然手に取ったのだが、「こんなすごい本があったのか」と驚嘆する他なかった。

 冒頭、鶴松の自虐的ともとれる表現を含んだ序文から始まる。

 「俺のような昔人には、現在の世の中は開けきった時代のように感じられる。(中略)俺は明治、大正、昭和の荒波をどうやら乗り越えて、現在までたどりついた経路の思い出を、落書きしてみた。(中略)夢のような時代に変わって、俺は自分が人間の屑のように思われて来る。(中略)ただ、消え行く昔からの行事、伝説やら、俺達が実際手にかけて行ってきた姿、我が下山内の事を、しどろもどろの事を書いて、昔と現在を比較して見ることも、一つの学びであろう」

 鶴松が自らの感情を綴るのは序章とあとがきだけで、本文では明治から昭和初期にかけての五城目の様子をありのままに記述している。

 第1章「村の暦」は、1月から12月までに行われる祝い事や風習といった年中行事について。旧正月の宵に村内で行われていたナモミハギ(なまはげ)や6月に高岳山(八郎潟町)への梵天奉納など、現在は行われていない行事が目を引く。正月や盆踊りの際に歌われていた唄も収録されている。

原本より、下山内地区の小正月行事「ナモミハギ」の様子

 第2章「村の生活」は子供の遊びや食事、生活道具などについて。ここには500年の以上の歴史を持つとされる五城目朝市に関する記述がある。現在は下町(下タ町)で毎月2・5・7・0の付く日に開催されているが、明治の頃は2の付く日が上町、7の付く日が下町に市が立った。鶴松は当時の市で売られていた商品についても事細かに書いており、地物の野菜や八郎潟の魚といった季節の食材から、木綿類などの日用品が盛んに売り買いされていたことが分かる。また大仙市の「刈和野の大綱引き」と同じような綱引き行事が、かつて毎年春に五城目の下町でも行われており、当時は御祭典(神明社祭典)、馬市と並んで「五城目の三大行事」と呼ばれていたという。この中で現在も続いているのは御祭典だけである。

原本より、五城目の三大行事にひとつ「綱引き」

 第3章「村の仕事」は米作り、山仕事、川漁から家の建て方などの生業に関すること。農業だけでなく大工や林業などの仕事の経験がなければ書けない内容だ。農閑期でも出稼ぎに行くことはなく、四季それぞれの地域資源を最大限に活用して生活している様子が見て取れる。

 「落書き」の大きな魅力は、鶴松が文章と共に描いた挿絵である。農具や生活道具の絵には、名称はもちろん、細かい部位の呼び名や説明も丁寧に加えられている。まるで民俗学者のフィールドノートさながらである。

 学者でも郷土史家でもない、一般の農家の男性が参考資料をほとんど用いず自らの記憶を頼りに書いた「村の落書き」。100年前の秋田の農村をリアルに伝える一冊である。

驚きの原本

 「村の落書き」の原本を実際に拝見してみたいと思った。2016年10月、五城目町地域おこし協力隊(当時)の柳澤龍さんに相談したところ、鶴松のご子息で現在畠山家のご当主である耕之助さんにコンタクトを取っていただき、自宅へ取材にうかがうことができた。

 鶴松が生涯暮らしていた富津内下山内組田は五城目町の中心部から約2キロ東。阿仁、大館方面へ向かう五城目街道の旧道から少し入ったところに、水田に囲まれた組田集落がある。耕之助さんは1924年生まれ。実年齢よりもだいぶ若く見えるハンサムなお爺さんだ。

 早速「村の落書き」の原本を見せていただいた。それぞれ装丁の異なる5冊分のスケッチブックやノート、うち2冊の表紙には「我村の落書下の巻」「落書中の巻」と書かれている。後で分かったのだが、5冊のうち2冊は下書きで、原本は上、中、下の3冊だった。書籍版 のまえがきには鶴松が記録を始めたのは昭和42(1967)年頃と書かれているが、秋田魁新報の昭和58(1983)年9月21日の記事によると昭和38(1963)年以前からだという。いずれにせよ鶴松が60歳を越してから始めたことには間違いないようだ。

鶴松の息子、耕之助さんが保管していた「村の落書き」の原本

 原本を開いてまず驚いたのは挿絵の素晴らしさであった。本で見た時は稚拙なイラストのように感じていたのだが、原画を見ると細かなところまで丁寧に描かれているのが分かる。書籍では線の濃淡がうまく印刷に反映されなかったため、原画の良さが伝わらなかったのだろう。本文も実に達筆で読みやすい字で書かれている。筆記道具のほとんどはボールペンだ。

 耕之助さんによると鶴松はプロの絵師に弟子入りしたことはなかったが、絵を描くのが好きで若い頃から嗜んでいたという。特に馬の絵を好んで描いていたそうだ。「村の落書き」の挿絵でも馬の絵になると筆さばきが冴えている。

 鶴松が描いた一幅の掛け軸を見せていただいた。寄り添う老夫婦と鶴、亀が描かれた「高砂」である。「本家の襖を取り換える時に古くなった紙を貰ってきてそれに描いたんだ。村で結婚式があると、よく借りていく人がいたんですよ」と耕之助さん。

 古紙に描いた上に何度も持ち出されたからか、軸はかなり傷んでいる。決して上手いわけではないが、絵からは鶴松の温厚な人柄が伝わってくる。村人たちに喜んで貰うために絵筆をとったのだろうか。

鶴松が描いた「高砂」の軸

 「村の落書き」の原本には、書籍化された後に書いた未発表の原稿も含まれている。自らの生涯について記した「想出(おもいで)深き俺の一生」。そして最晩年に書かれたと思われる「俺の長い病床生活の歩み」では、日々懸命に介護してくれる耕之助さんへの感謝を訥々(とつとつ)と綴っている。

 「良い息子生まれて俺は本当に仕合(しあわせ)に生まれて来て死んでも忘れる事できない(中略)病気が長いので申し訳ないと思って居る。」(原文ママ)鶴松とはどのような人物だったのだろうか。私は一層興味を抱いた。

(続く)

小松 和彦(こまつ・かずひこ)
 1976年秋田市生まれ。青山学院大文学部史学科(考古学専攻)卒。在学中に東北アジアの学術発掘調査に参加。99年カンボジアのNGO活動に参加したのをきっかけにアジア・アフリカの民族文化や手仕事に関心を抱き、各地の美術工芸品の収集・販売を始める。2006年父の跡を継ぎ、秋田駅前で工芸品を展示・販売する小松クラフトスペース代表に就任。11年から秋田県内の遊郭・色街の調査活動を始め、16年に「秋田県の遊廓跡を歩く」(カストリ出版)を刊行。「縄文文化」「世界の民族工芸」「遊廓」などに関するレクチャーを京都、秋田の美術大学や博物館などで行っている。