東海林太郎とロイド眼鏡(上)「これが好きなんですよ」

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 秋田が生んだ国民的歌手、東海林太郎(1898―1972年)の人生に相棒のように寄り添ったロイド眼鏡。秋田市在住のメガネライター・今絵うるはさんががその背景をひもとく。

 「わらび座」が秋田市中通のにぎわい交流館でミュージカル「東海林太郎伝説」を上演しているというので見に行った。秋田県仙北市を拠点にしながら宝塚歌劇団や劇団四季に次ぐ規模を誇るこの劇団。伝統文化の活性化、民衆芸術の発展を目指す活動に手塚治虫、山田洋次ら名だたる文化人が賛同を示してきた。私は看板女優に密着取材するテレビ番組の台本を書かせていただいた縁があり、今回も楽しみに出かけ、すっかり感動に包まれ帰宅した。

 「東海林太郎伝説」というタイトルの意味と、その波乱万丈な人生。国民的歌手として、ここまで深く愛され慕われる理由は何か。がんと闘い、4度も手術を受けながらなぜ死の直前まで歌い続けたのか。その人柄も含めてもっと知りたくなった。

 秋田市出身の国民的歌手。戦時中は慰問団長として戦地に赴き、日本歌手協会の初代会長も務めた。生真面目で東北人ならではの粘りがあり、誰にでも分け隔てなく接する思いやりのある人だったという。

 レコーディングの際、誰もいないスタジオでも深々と礼をして入り、真夏のコンサートでは冷房のない会場でも必ず上着にボタンを掛けて歌った。開演前は楽団のひとりひとりに自ら楽譜を配り、バンドマスターから切符もぎや掃除のおばさんにまで挨拶をして回った。

 燕尾服にロイド眼鏡、直立不動で歌うその姿は東海林太郎の代名詞にもなっている。戦時中、慰問団長として訪れた戦地で、ミカン箱を並べたような急仕立ての舞台でも国の方針に逆らい燕尾服を脱がなかった。

 1945(昭和20)年8月15日、東海林太郎は長野県のとある小さな村でステージに立った。終戦の日に開かれた「戦後の日本ではじめて開かれた音楽会」だったといわれている。午後から予定されていた演奏会のために現地入りしていたところに、終戦の詔勅が伝わった。戦時下では多くの曲を歌うことを禁じられていたが、この日の東海林太郎は好きな歌ばかり熱唱した。歌を聴くこともままならず、歌うことすら忘れてしまっていた人々の心に、彼の歌は深く染み入ったはずである。

 晩年、東海林太郎は、ある対談でロイド眼鏡について「そのまるいメガネ、いまなかなかないでしょう」と聞かれ、メガネを手に取りながら「これが好きなんですよ」と語っている。あるとき、ロイド眼鏡を割ってしまい、ドイツ製の角ばったメガネを掛けてテレビに出演すると、ファンばかりか妻からも不評を買ったらしい。当時のドイツ製といえば、きっと線の細いシンプルなメタルフレームだったと想像できるが、あまりの不評ぶりに、銀座の眼鏡店に頼み、ロイド眼鏡を1ダースほどオーダーしたというから驚く。

 東海林太郎の波乱万丈な人生は、私たちに多くのことを語りかけてくれる。その人生のエピソードは、18日に千秋楽を迎えるミュージカル「東海林太郎伝説」で楽しんでいただけたらと思う。エピソードのひとつひとつが実にドラマティックであり、伝説級である。

 きっと自分の心に正直に生きた人だったのだろう。それにしても骨太で気概に満ちた人生である。ステージは氏にとって戦場だったとはいえ、国の方針に反して、当時は強制されていた国民服ではなく燕尾服で通したのだから、その覚悟といったら半端なものではなかったはずだ。

 東海林太郎の傍らには相棒のように、いつもロイド眼鏡があった。メガネライターの私は、このことをとても嬉しく思うと同時に、実に興味深く感じている。なぜならロイド眼鏡というアイテムにはあるキーワードが隠されているからだ。東海林太郎とロイド眼鏡。その語源や時代背景からいって、とても深い意味が感じられるのである。

 今絵うるは(いまえ・うるは)1974年東京生まれ、青森県八戸市育ち。短大入学を機に18歳から秋田市。眼鏡店勤務を経て、眼鏡専門誌の起ち上げに携わり、秋田と東京を行き来しながら編集や取材をスタート。現在は日本でも珍しい「メガネライター」としてファッション誌や眼鏡専門誌などに執筆。県内テレビ局のドキュメント番組で構成作家も務める。

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