ヒエキガミが来た道①真澄が描いた人形道祖神

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真澄が描いた小雪沢のヒエキガミ(「おがらの滝」より 秋田県立博物館所蔵)
真澄が描いた小雪沢のヒエキガミ(「おがらの滝」より 秋田県立博物館所蔵)

小松和彦コラム 新あきたよもやま(17)

 現在でも秋田県内に100体以上祭られている人形道祖神。その起源についてはほぼ不明と言ってよい。江戸時代に飢饉が起きたり疫病がはやったりした際に作られたのを始まりとする伝承はいくつかあるが、明確にそれを記録した資料は見当たらないのだ。

 秋田の人形道祖神について詳細に記録した最初の人物は江戸後期の紀行家・菅江真澄(1754~1829年)である。真澄は旅先の村々にワラや木で作られた人形が立っていることに注目し、仙北、平鹿では蒭霊(クサヒトガタ)、草二王(クサニオウ)、大館では避疫神(ヒエキガミ)と呼んで絵と文に残した。

 真澄の図絵では、クサヒトガタやクサニオウが単体で祭られた巨大なワラ人形であるのに対し、ヒエキガミは等身大と思われる2体の木像で、まるで人間のように着物と袴をまとっている。姿かたちは大きく異なるものの、これらはすべて疫病から村を守るために作られた人形神だという。

 ヒエキガミについて、真澄は次のように説明している。

 「小雪沢の関を越えると、道のかたわらに大木で作った人形が2体あり、朱色に塗り、剣を持たせ、武人のようだ。これを小屋の中に入れ、クサヒトガタと同じく疫病を避けるために祭り、春秋に作り替えたり、塗り替えたりする(要約)」(「おがらの滝」1807年)

 この朱色に塗られた2体の木像は、連載の第6、7回「ショウキサマ60年ぶりに生まれ変わる」(2017年9月、10月)でも紹介した、最古の人形道祖神の記述をほうふつとさせる。平安時代、天慶元(938)年に書かれた「外記庁例」の一節だ。

 「最近、都の大小の道ばたに、朱色に塗られた男女の木像が立てられ、それぞれに性器が描かれている。その前に机を置きお供え物や花を飾って、子供たちは猥雑に騒ぎ、大人たちは慇懃(いんぎん)に拝礼している。フナドカミ、御霊(ごりょう)と呼ばれている(要約)」

 クサヒトガタやクサニオウは現在でも横手市や湯沢市などでカシマサマ、ショウキサマとして祭られている。そしてヒエキガミもドンジンサマ(ドジンサマ)として大館市の雪沢地区の4つの集落に祭られているのだ。

 このドンジンサマという名称は「道祖神様」が訛って変化したものと考えられる。真澄が描いたヒエキガミはもしかすると最古の道祖神なのかもしれない。

樹海ラインのドンジンサマ

 大館市の雪沢地区は長木川の上流、大館と小坂を結ぶ小坂鉄道(2009年廃線)の沿線にあり、天然秋田杉の宝庫として古くから知られていた。現在、大館市内には約50体の人形道祖神が確認できるが、ペアで祭られている朱色の木像はなぜかこのエリアに集中している。

 県道2号(樹海ライン)を大館から小坂へ向かうと、真澄が記録した小雪沢の集落がある。集落の入口に高さ120センチほどの木像がある。女のドンジンサマだ。全体が朱色に塗られ目がぱっちりと開いた女性の顔が描かれている。両腕は無く、腰には2本の木刀を差している。

小雪沢のドンジンサマ(女神)

 集落の反対側の入口には男のドンジンサマが祭られている。男性の顔が描かれていること以外は女のドンジンサマと同じ形状だ。真澄が記録した2体のヒエキガミは現在では1体ずつ東西に分かれて祭られているのだ。

 集落の方に話を聞くと、毎年6月中旬に化粧直しを行っているという。民俗学者・神野善治の著作「人形道祖神の諸相」によると昭和初期まではこのドンジンサマの化粧直しの日に木像とは別にワラ人形も2体作っていたらしい。

 小雪沢から東に行くと大明神の集落がある。こちらのドンジンサマは神社の拝殿に2体祭ってある。かつては村境に祭られていたものを、神社に移したようだ。

 大明神から樹海ラインを東へ、旧小坂鉄道の線路を渡ると新沢集落がある。まもなく左手に男女一対のドンジンサマが祭られた社が見えてくる。両腕は失われているが、片方の人形にはくっきりと乳房が彫られており、共にワラで作られた腰蓑をつけている。集落の東側にも同じように男女2体のドジンサマが祭られていた。

新沢、上のドンジンサマ

 旧暦の6月1日に祭典があり、4体のドンジンサマがリヤカーに乗って村を練り歩くという。ヒエキガミは現役で村を守っているのだ。

秘境・二ツ屋のドジンサマ

 小雪沢、大明神、新沢はいずれも県道2号線(樹海ライン)上にあって交通の便は良いが、二ツ屋は対照的でまさに山村と呼ぶにふさわしい集落だ。

 樹海ラインから茂内へ向かって左折し、そのまま長木川に沿って5キロほど行くと、車がやっと1台通れる橋が架かっている。この先が二ツ屋だ。未舗装の道を更に行くと、右手に朱色に塗られた男女一対の木像が祭られている。これが二ツ屋の「下のドジンサマ」である。

 男女ともに高さは120センチほどで、真澄の図絵にあったように白い衣をまとい、脇に木刀を携えている。男神の股にはかつては男根がはめ込まれていたと思われるほぞ穴があり、女神には女陰が彫られている。顔には怒りの表情が浮き彫りされ、雪沢に点在する他の道祖神よりも原始的な印象である。

二ツ屋、下のドジンサマ

 二ツ屋は長木川上流の河岸段丘上にあり2018年現在の戸数は6軒。ここにも新沢同様、上と下に2体ずつ、計4体のドジンサマが祭られている。

 「上のドジンサマ」は下から西へ100メートルほど離れた、集落の裏山にある。草に覆われた山道に沿って行くと、左手に2体並んでいる。大きさは下よりも一回り小さいが、山中にあるせいか、より古色を帯びているように見える。古代人の造形を思わせる神秘的な佇まいに、私は圧倒された。

二ツ屋、上のドジンサマ

 上と下のドジンサマの間には3軒の家しかない。道祖神は村境に祭られる神様なので、本来であれば上のドジンサマが祭られるべき場所は集落の北側にある出入口なのだが、なぜ今は誰も通ることのない山中の旧道に置かれているのか、不思議に思った。

近代産業とヒエキガミ

 「上のドジンサマ」のすぐ真下にお住いの太田昇さん(昭和25年生まれ)に取材させていただいた。太田家の祖先は江戸城を築城した室町時代の武将・太田道灌と伝えられているという。

 「おそらく落人として流れて来たんでしょうね。開村当時、ここにはうちとすぐ隣の石川さんの2軒しか家が無かったそうです。だから地名が二ツ屋なのですよ」

 享保15(1730)年に編纂された「六郡郡邑記」によると二ツ屋の戸数は8軒。そんな小さな山村は近代に入ってから一変する。

 明治35(1902)年、藤田組(現、DOWAホールディングス)が国有林の一部を譲り受けて二ツ屋に大規模な製材所を建設。所員29名、従業員550名を抱え、あっという間に二ツ屋に千人規模の町が形成されたのだ。

 「これが当時の二ツ屋の写真です」

 太田さんから見せていただいたのは「山上ヨリ二ツ屋市街ヲ望ム」と表記された絵葉書である。びっしりと立ち並んだ家屋。二ツ屋は「村」ではなく「市街」だったのだ。

 二ツ屋にお住いの小田柳允臣さんによると、大正時代には600軒、3000人の住民がいて、学校(高等科)、病院、料理屋もあった。小坂鉄道の支線である長木沢線も敷かれ、蒸気機関車が運行していたという。

最盛期の二ツ屋の写真(太田昇氏蔵)

 しかし、大正13(1924)年に製材所が大館駅前に移転したことにより、住民の多くも離村した。そして再び二ツ屋は昔のような山村に戻った。

 製材所があったことにより、集落の範囲は南北に大きく拡大した。現在でも当時造成された土地に家屋が点在している。しかし、ドジンサマは江戸時代からの境界から移動することなく祭られた。20世紀においてもヒエキガミが置かれた場所は重要な意味を持っていたのだ。

 かつてドジンサマの祭りは年2回、5月と10月に行われ、人形を塗り替えたり、衣を取り替えたりした。「人形道祖神の諸相」によると、同じ日にワラ人形を2体作って川へ流すことも行っていたという。

 村の人口減少と高齢化で約5年前からこの祭りは行われなくなった。急激な近代化の波にも微動だにしなかったヒエキガミ・ドジンサマはこれからどんな村の姿を見ていくのだろうか。

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