ヒエキガミが来た道②人形道祖神のルーツはアジアか?

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小松和彦コラム 新あきたよもやま(18)

 前回のコラムで触れたように、10世紀の平安京では大館市・雪沢の避疫神(ヒエキガミ)と特徴がよく似た男女の木像が祭られ、それが道祖神の最も古い形態とされている。そのルーツは一体どこにあるのだろうか。

アジア各地のヒエキガミ

 村の入口に男女一対の木像を祭る風習は日本以外のアジア各地にも存在する。

 お隣の韓国では長栍(チャンスン)、または将軍標と呼ばれる男女の神を刻んだ木柱を村の入口に立てる風習がある。男神は「天下大将軍」、女神は「地下女将軍」と名付けられている。顔はヒエキガミと同様、怒りの表情をたたえる。

韓国の長栍(将軍標)(『朝鮮之風光』より)

 タイ、ラオス、ミャンマーの国境地帯・ゴールデントライアングルの山岳民族・アカ族は村の入口に人間の世界と精霊の世界との結界となる門を作り、その上に鳥の形をした木彫を飾る。同じような鳥形の木製品は日本の弥生時代の遺跡からも数多く出土している。アカ族の門は日本の鳥居のルーツではないかとする説もある。その門の脇に男女の木像が祭られる。これらは部族の先祖の霊が宿った祖霊神であり、それぞれに性器も表現されている。

タイ・アカ族の村境に祭られた男女の木像

 島峡部に目を移すとマレーシア・ボルネオ島のイバン族が男女の祖霊を刻んだ木像を村の入口に祭る。イバン族はかつて首狩りや刺青の風習があり、米から「トゥア」という濁酒のような酒を造ることでも知られる。

秋田市・地蔵田遺跡の復元された出入り口にはアカ族の門と同じように鳥の木彫が飾られている

 これらはすべて悪霊から村を守るために立てられた、いわばヒエキガミである。アカ族やイバン族ではそれらが祖霊神でもあり、さらに日本と共通した文化を持つことにも注目したい。

蘇塗(ソト)とヒエキガミ

 文化人類学者の鳥越憲三郎は紀元前に中国の長江中下流域で水稲農耕を営んでいた倭族が黄河文明圏の民族から度重なる侵略を受け、東南アジアの山岳地帯やインドネシアなど周辺の地域に拡散し、その中で朝鮮半島を経て日本列島に渡来した一団が弥生人(倭人)となったとする「倭族論」を提唱した。アカ族の鳥居をはじめ、首狩りや刺青といった習俗、高床式の家など、これらは各地に分散した倭族に共通する民俗的特徴だという。そして道祖神の源流ともいうべき「邪霊の侵入を防ぐ神々」もまた、倭族の習俗として解釈している(『古代朝鮮と倭族』1992)

 中国の史書、『後漢書東夷伝』、『魏志東夷伝』には3世紀の朝鮮半島西南部・馬韓(ばかん)における習俗・蘇塗(ソト)について書かれている。これらの記録によると馬韓では種撒き後の5月と収穫後の10月の年2回、鬼神の祭る宴を催す。また鬼神を祭る蘇塗を作り、その聖域に逃げ込んだ者は誰も手出しができない。その傍らに立てた木には鈴や太鼓をかけるという。蘇塗とは仏塔のようなものだという。

 鳥越は韓国での調査で村の入口などに「塔(タプ)」と呼ばれる石積みや「ソッテ」と呼ばれる鳥形の木製品を先端に付けた木が立てられているのを発見し、これらが蘇塗を伝承したものであると想定した。そして韓国の避疫神である長栍もしばしば一緒に祭られているのを確認している。

 『韓国の長栍』(李相日、1981)によると、長栍とソッテは、同じ場所に立てられるのが一般で、ともに悪霊の侵入を防ぎ、村の安寧を保つ目的があったという。蘇塗の道祖神的性格については戦前から既に指摘されていた。作家・溝口駒造は『日本古史典の再吟味』(1934)の中で、蘇塗が日本の道祖神信仰のルーツであると指摘し、長栍は蘇塗が変容したものであると考察した。そして、案山子(かかし)の古語である「そほづ」、朱色の古語である「そぼ」の語源を蘇塗に求め、『外記庁例』に書かれた平安京の避疫神と長栍の特徴が類似していることにも言及している。

 馬韓の人々が祭った鬼神とはいかなる神であったのか。考古学者の金関恕は『東夷伝』の高麗(朝鮮半島北部)の記述に稲作の神とされていた鬼神とは男女一対の祖霊神であり、それが木像の人形として祭られていると記されていることから、馬韓でも同様の信仰形態であったと想定する。そして、朝鮮半島から日本への稲作文化の渡来に伴い、農耕儀礼もまた伝わり、蘇塗に類似した祭場が各地で設けられたとする(『弥生の習俗と宗教』2004)

 弥生時代の大集落・朝日遺跡(愛知県清須市、名古屋市)では前述した鳥形木製品をはじめ、銅鐸、石棒などの祭祀遺物が居住区の周縁部から出土している。集落の境界で祭祀が行われていることから、後の道祖神信仰に繋がる蘇塗のような祭場が推定されるという。また、男女一対の木像の人形(木偶)は滋賀県の湯ノ部遺跡などで出土している。(『縄紋の祈り、弥生の心』大阪府立弥生博物館、1998)

 弥生時代に大陸から水稲耕作の技術を携えて日本列島にやってきた人々。彼らの農耕儀礼にとって境界は重要な意味を持っていた。秋田、韓国、東南アジアと海を越えて伝えられるヒエキガミの存在は、弥生人のルーツとなる民族がアジア各地に拡散したことを示しているのかもしれない。

人形道祖神と農耕儀礼

 弥生時代に伝えられた道祖神の源流となる信仰は、雪沢のヒエキガミに限らず、秋
田県内に点在する人形道祖神にも見ることができる。

 3世紀、馬韓における鬼神の祭りは種蒔き後の5月と収穫後の10月の年2回、春と秋に行われていた。人形道祖神を作り替える際に行う祭りも同様で種蒔き後と収穫後の春と秋に行われることが多い。現在では作り替えが年に一度、数年に一度という集落でも、かつては春と秋の2回行われていたという話を取材先でよく聞く。大館市二ツ屋のドジンサマも、かつては年2回、5月と10月に祭りが行われていたのだ。

 人形道祖神の祭りは人形の作り替えだけに留まらない。直会(なおらい)という酒宴を行う事はもちろん、地域によって若者が新しい人形を担いで集落を巡行したり、人形の前で念仏を唱えたりするといった様々な儀式が行われるのだ。

 大館市山田は集落8町内の境界にジンジョサマ(地蔵様)という男女一対の人形道祖神が祭られている。かつては各町内で春と秋の年2回祭りを行っていたが、現在では旧暦10月末日の前日のみ行う。お祭りの日は、新しく作り替えたジンジョサマの前で8枚の盃に注いだお神酒を飲み無病息災や豊作を祈る「八皿(やさら)」という儀式や高砂(たかさご)の朗誦などが古式にならって執り行われる。その後、男女のジンジョサマを若者が担いで町内を練り歩くのだが、隣の町内のジンジョサマと鉢合わせになると、互いの男女のジンジョサマをまるで交合させるようにぶつけ合う。

山田のジンジョサマ祭り。隣同士の男女の人形をぶつけ合う

 山田のジンジョサマの祭りは五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災など様々な祈りがこめられた行事である。ジンジョサマが道祖神としてだけではなく、多くの役割を担った神様であることがうかがい知れよう。

 大館市中羽立では集落内の3か所にニンギョウサマというワラで出来た人形道祖神を祭り、春と秋の年2回作り替えの祭りを行っている。春の作り替えの際には田畑の害虫を追い払う儀式である虫追いも行われる。中羽立の虫追いは人形作りを終えた後、男たちが村境の3か所にタモの木を立ててお神酒を上げ、そこで笛太鼓を鳴らして虫を追い払う。虫追いは日本各地に伝えられているが、中羽立の行事は道祖神の祭りに重ねて行われる点で興味深い。

中羽立の虫追い行事。左手にある人形は隣の粕田集落の道祖神

 大仙市南外の中袋にある稲荷神社には高さ約80センチの大きな木製のお面が祭られている。これはショウキサマと呼ばれ、元々はワラで作られた人形道祖神の頭部に被せられていた可能性が高い。毎年、旧暦の4月8日になると、ショウキサマの面は村はずれの田圃の一画にあるお堂に移される。この行事を「ショウキ立て」という。そして、旧暦10月10日に、再び神社に戻される。ショウキサマの性格について、郷土史家の武藤祐悦さんは、「春に山から里に下りて来る田の神で、秋の収穫を見届けた後、再び山の神となる」と推測する。

中袋のショウキサマ

 人形道祖神には古代の農耕儀礼の要素が残っている。災いを防ぐ避疫神であると同時に子宝の神であり、田の神でもあるのだ。もしかすると、元々は祖霊神(鬼神)であることが、多様な性格を持つことに繋がっているのかもしれない。

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