ヒエキガミが来た道④~ダム湖に沈んだ村見つめる

お気に入りに登録

小松和彦コラム 新あきたよもやま(20)

 秋田県内には大館市雪沢のヒエキガミ(避疫神)の他にも男女の神様がペアで祭られる道祖神が存在する。場所によってニオウサマ(仁王様)、ショウキサマ(鐘馗様)といった名称が付けられているが、女神なのにも関わらずこうした勇ましい武神の名前が付けられているのを不思議に思われる方も多いだろう。ちなみに有名な湯沢市岩崎のカシマサマ(鹿島様)も三体祭られているうちの一体は女神だ。

女のニオウサマ

大館市二井山のニオウサマ

 こうした男っぽい名前が付けられた女神の存在はこれらが本来「仁王」や「鐘馗」として立てられたものではないことを示唆している。ヒエキガミと同様、元々男女二体の道祖神として祭られていたものに、仏教や修験道の影響でこうした名称が後に付けられたと思われる。そして多くの集落では人形作りをやめて、代わりにお地蔵様や庚申塔などの文字碑を村境に祭っている。現在、道祖神が見られるのは先祖から伝わる人形の習俗をやめなかった集落なのだ。その中でも最古の道祖神であるヒエキガミが祭られている雪沢の集落は、奇跡と言っていいほど貴重な存在のように私には思える。

 ヒエキガミのルーツをたどっていくと、古代日本の民間信仰や大陸から稲作と共に伝わった農耕儀礼にまで遡ることができる。どのような人々がこれを伝え、守り継いできたのだろうか。

森吉村のヒエキガミ

 菅江真澄は雪沢の他にもう一例、ヒエキガミとして人形道祖神を記録している。それは森吉山麓の桐内村にあった「避疫神蒭霊(ひえきがみくさひとがた)」である。

 享和2(1802)年の12月12日、森吉山からの帰り道、小又川沿いに歩いていた真澄は道の左右の雪の中に泥塑天子(どうそてんし=道祖神のことか)のような人形神が立っているのを見て驚いた。図絵には馬の毛を髪にして赤と青の面をつけた男神、女神のワラ人形が雪の中に埋もれている様子が描かれている。

 昭和62(1987)年、北秋田郡森吉町(現、北秋田市)の桐内集落を訪ねた民俗学者の神野善治は上下の村境に「八坂神社」と刻まれた石碑が立てられているのを見つけ、ここにかつて人形道祖神が立てられていたと推測した。それは真澄の記録の中に「祇園牛頭天王」の札が付けられていた人形道祖神があったからだ。祇園牛頭天王は八坂神社の祭神である。

 さらに神野は高台にある神社で金毘羅大権現の石碑の脇に大小2体の木製の人形の頭が祭られているのを見つけた。これらは「八坂神社」の碑があった村境にかつて祭られていたワラ人形の頭で、真澄が雪の中で見た人形の頭であることは考え難いが、その後に作り替えられた「子孫」であると想定した。真澄を雪の中で驚かせた避疫神は200年後も存在していたのだ。

ヒエキガミの村

 ヒエキガミが祭られていた桐内は森吉山北麓を流れる小又川沿いにあり、享保15(1730)年の『六郡郡邑記』には戸数52軒。その支郷となる13の村が小又川の上流に点在した。この14の集落を含めて森吉村と呼ばれていた。

 平成4(1992)年、森吉村は地図から姿を消した。森吉山ダムの建設により、ダム湖の底に沈んだのだ。

かつて森吉村があった場所。現在はダム湖に沈んでいる

 ダムの建設に関連して平成4年から秋田県埋蔵文化財センターにより、水没する範囲に確認された遺跡の発掘調査が行われた。それまで「落人集落」や「300年の歴史」と言われていた森吉村だが、発掘の結果、なんと1万年を超える歴史があることが判明した。奇しくもダムに沈むことにより、ヒエキガミを祭る村がたどってきた歴史が明らかになったのだ。秋田県埋蔵文化財センターが刊行した調査報告書と『小又川の一万年』(2007)を元に、その概略を見ていこう。

 まずは約1万5000年前の旧石器時代の石器が出土、縄文時代では約9000年前の縄文早期から約2300年前の縄文晩期まで継続して遺構や遺物が出土している。集落跡や祭祀施設の環状配石遺構に伴い、数多くの土器や石器、そして80点もの土偶が見つかっている。狩猟採集民の縄文人にとって、ここは住みやすい環境だったのであろう。

 続いて弥生時代にも遺構や土器が見つかっているが、古墳時代のものは見つかっていない。まさに北東北の過疎時代だ。そして、約400~500年の間をおいて、奈良時代になってから再び人が住み始める。開拓民がやってきたのだ。

 9世紀の平安時代になると村の人口は一気に増加する。拠点集落だったと思われる地蔵岱遺跡からは100軒以上の竪穴式住居が確認され、製鉄炉も見つかっている。11世紀には集落の周りに全長200メートル以上の堀が作られる。こうした堀や土塁などで武装した村は防御性集落と呼ばれ、この時期、北東北各地に出現する。前九年の役や後三年の役に至る東北一帯を巻き込んだ戦乱が森吉村のような山奥にまで及んでいたことを示唆している。

 集落に隣接した水場からは人形、斉串、刀形などの木製品が見つかっている。古代の城柵官衙で行われていた祓の祭祀が、その後、山村に暮らす農民によって行われるようになっていたのだ。

 集落を囲んでいた堀は鎌倉時代には埋まり、中世の人々が住んだ掘立柱建物や竪穴状遺構が数多く見つかっている。戦国時代には再び村が溝で区画され、戦乱の時代があったことを予感させる。

 そして人々の営みは江戸時代に継続していく。遺構として検出されているのは掘立柱建物や炭焼き窯などで、遺物の量も少なく、山村の慎ましやかな生活を感じさせる。

 菅江真澄は森吉村で宿泊した家の事を記している。その家は貧しく夜着も無いので、夜はワラを重ねてその上に藻を編んで作られたむしろを置いて寝た。真澄は眠ることができず朝を迎えたという。翌日に泊まった別の家では夜具はあったが、壁の隙間から雪が吹き込み、朝を迎えた頃には床も夜具も真っ白になっていた。その5日後、真澄は風邪でダウンし、2日間寝込んでいる。雪の中のヒエキガミを見て驚いたのは、風邪から回復した当日であった。

 真澄が森吉村を訪ねた19世紀初頭、人々の生活は古代からほとんど変わらない程、質素だった。そんな山村に暮らす人々が先祖から信仰を受け継ぎ、心のよりどころにしたのが、ヒエキガミだったのではないだろうか。

雪の中のヒエキガミ

かつて避疫神があった所に立てられたと思われる「八坂神社」の碑

 2018年12月、私は秋田人形道祖神プロジェクトの相棒である宮原葉月さんと共に森吉村を訪ねた。この時期を選んだのはもちろん真澄にあやかったからだ。かつてヒエキガミが祭られていた桐田をはじめ、森吉村は現在ダム湖に沈んでいる。しかし、14の集落にあった神社は、ダムを見下ろす高台に建立された森吉十四合同神社に合祀され、そこに石碑や御神体などが集められているという。

 深い所ではひざ下まで積もった雪をかき分けて、神社へと向かう参道を登る。途中、「八坂神社」と彫られた石碑があった。桐内の村境にヒエキガミに代わって立てられていたものだ。

 本殿のある高台に着くと、各村で祭られていた御神体を納めた祠堂が並ぶ。その一角に、神野善治がかつて確認した2つのヒエキガミの頭部があった。

森吉十四合同神社に祭られたヒエキガミの頭部

 頭は板上で大きい方が51cm、小さい方が46cm。全体が朱色に塗られていた痕跡があり、目の周りだけが部分だけが黒い。どこか能代市二ツ井町小掛のショウキサマに似ている風貌だ。この頭を付けたワラ人形はさぞかし迫力があっただろう。

 真澄を驚かせてから216年、森吉村を守る役目を終えた2体のヒエキガミの頭は、ダム湖に沈んだ村を雪の中から静かに見つめていた。