阿部雅龍:飛ばぬなら飛ばせてみせよう南極飛行機

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南極について熱く語る筆者(2019年10月、東京都内)
南極について熱く語る筆者(2019年10月、東京都内)

阿部雅龍コラム 冒険と人力車の日々(26)

 「今年は南極・大和雪原行きの飛行機を飛ばせない。来年なら飛ばす」

 その連絡が南極飛行機チャーター会社から来たときは絶望的な気持ちになった。既に10月に入っていて、11月の出発まであと1カ月。スタート地点に立つためのチャーター代7500万円を含む8000万円の冒険資金の目途も何とか立ち、装備品をそろえている時期だった。多忙だが高揚感もある。白瀬矗中尉の最終到達地・大和雪原から南極点まで歩く。幼い頃から思い描いていた夢だ。冒険を志して15年。ここを目指して走り続けてきた。重ねた苦労はムダじゃなかった。はるか遠くに霞んでいた夢の輝きは、もう目の前だと思っていたのに…。

 今年1月に日本人初のルートで南極点にひとりで歩いて到達した。「これで白瀬の夢を完結させる挑戦権を得たぞ」と心は晴れやかだった。白瀬中尉の足跡を延ばすには大和雪原へ行かねばならない。これが大変なことなのだ。現在、民間人が南極冒険するための交通手段は限られている。個人の冒険で国家が所有する砕氷船は使うことができず、アクセスは飛行機に限られる。白瀬隊は船で南極に乗り込んだが、現代では考えにくい。社会情勢が白瀬中尉の明治期とは違う。1959年に発足した南極条約によって南極での活動は厳しく制限され、無断の上陸は許されない。前回の南極冒険でも環境省に届け出をした。

 2017年にスイス人冒険家マイク・ホーンが船で南極に上陸し、風を利用する凧によるセーリングで大陸を横断した。冒険に対して国家が応援する欧米と日本の間には大きな違いがある。日本では冒険の話をすると、まず「仕事とか生活は」と聞かれるが、欧米では「おめでとう。夢を生きてるんだね」と言われる。この感覚の違いは大きい。これは白瀬の時代とあまり変わらないように思う。同時期に国家のバックアップを受けて南極に行ったノルウェー・アムンゼン隊やイギリス・スコット隊と違い、白瀬隊は民間から支援を集めて南極に向かった。日本の冒険は、昔から夢に思いを寄せる民の力で動いてきた。

 飛行機代が多額になる理由を説明しよう。スタート地点の大和雪原は、世界の果て南極の中でも辺境といえる場所だ。海に張り出したロス棚氷という、日本国土の1.5倍の53平方キロにも及ぶ広大な氷の上にある。冒険の拠点となるベースキャンプ・ユニオングレイシャーからは直線距離で約1500キロ。小型プロペラ機では1回のフライトで飛べない距離である。中間地点にガソリンを入れたドラム缶をあらかじめ運んでおき、氷上着陸して燃料補給しなければならない。補給用の燃料を運ぶには、雪上車であれプロペラ機であれ、多大な時間と経費がかかる。僕が乗るのは大和雪原までの片道だが、パイロットたちは復路でも同じように補給するのだから大量の燃料が必要だ。さらに南極条約によりゴミを残すことが許されず、彼らはドラム缶の撤収も行う。

 前回の南極冒険では、ベースキャンプからメスナールートの出発点まで外国人冒険家4人とシェアすることができ、飛行機のチャーター代は1000万程度だった。大和雪原へ行くには、燃料代に加え僕一人のフルチャーターになってしまうので金額が大きくかさむ。

 上記が7500万円というチャーター代の彼らの言い分であるが、僕には裏の考えも見て取れる。彼らにとっても冒険のサポートは命賭けだ。当たり前だが南極には舗装された滑走路は存在しない。着陸する雪原にはクレバスが点在し、強烈なブリザードで雪が削られてできた小丘もある。遠隔地であるため、着陸に失敗した場合はパイロットたちが助かる確率はごく低い。レスキューもおいそれと来ることはできない。

 飛行機会社には、僕の意志の強さを試すため多大な金額を提示し、ふるいにかけようという狙いもあっただろう。この大金を個人で集めるのは簡単なことではない。今回、その目途をつけたことで、彼らの中では「本当に集めてきやがった…」という驚きもあっただろう。一方、僕が本気であることを理解し、「君がやるなら僕らもやる。ただしパイロットたちの安全を担保する必要がある。着雪場所を綿密に調べるために時間がほしい」と考えたのだろう。彼らは雇っているパイロットの生命を尊重する義務もあるのだから。

 南極行きの民間の飛行機は、僕が交渉している会社が実質的に独占している。僕は夢の実現を目指しているが、相手はビジネスでやっているという側面も忘れてはいけない。

 白瀬隊がなぜロス棚氷から行ったのかというと、当時は日英同盟があり、イギリスの植民地であったオーストラリアを経由できたからだ。オーストラリアから真っ直ぐ南に行けばロス棚氷がある。当時は南極の内陸部はどうなっているか知られておらず、海から上陸したらひたすら南に進むしかなかった。

 白瀬隊が東京・芝浦ふ頭から南極に向かったのは1910年。ライト兄弟が世界初の有人飛行を成功させたのは1903年だから、当時は長距離を飛べるような飛行機はないし、雪上車も開発されていない。船で南極に行き、犬ゾリで踏破するという手法が最も現実的だった。

 歴史のもしも、であるが、あのまま白瀬隊が南進し続けた場合、氷河とクレバスの温床である標高4000メートルの山々が連なる南極横断山脈が待ち構えており、惨状は免れなかったと推測する。氷河がほぼ存在しない日本で育った白瀬隊が、山脈越えをできるほどの装備と経験は持ち合わせていなかったろう。さらにこの年の南極は、夏の終わりに近づくほど天気が荒れた。イギリスのスコット隊が帰路で全滅した主たる理由は、例年にない大寒波のせいだったというのが定説だ。大和雪原での撤退は、白瀬中尉の危険予知の本能に則した英断であると、南極を知れば知るほど感じている。僕はこの山脈を食料と燃料などを積んだ150キロのソリを引いて、単独かつ人力で越えて行かねばならない。

 1年のうち南極冒険を行える期間は限定されている。数十年前の冒険家たちは、もう少し長めに期間を設定できたのだが、今では白夜を挟んだ11月から1月に限られる。南半球の夏に当たるこの時期は天候が安定しやすい上、白夜の間は24時間太陽が出ていることが利点となる。目視できない暗闇の中、デコボコのある雪原に飛行機がランディングするのはリスクが高い。南極飛行機会社はそのリスクを減らすため、限られた期間で冒険家を受け入ることにした。期間中に冒険を終えることができないと、強制的にピックアップになるばかりか、ピックアップに要する飛行機代は個人持ちになる。前回の南極冒険は僕がシーズン最後の南極点到達者になり、後方のグループは時間切れで強制ピックアップとなった。

 大和雪原から人力でソリを引いて歩く場合、山脈越えに多くの時間を要するので、シーズン初めに入らないと達成は不可能である。遅くに南極に入ると、たとえ体力と食料があっても時間切れで撤退を余儀なくされる。だから僕は2020年11月にスタートすることにした。飛行機会社からは、次のシーズンで最も早く南極入りする冒険家になると説明を受けている。

 今、白瀬中尉の気持ちを追体験しているように感じる。白瀬中尉も南極に向かうための船が手に入らず出発時期が遅れ、焦燥を感じ、世間から批判を浴びていた。準備は思うようにはかどらない。世間からは「南極探検隊はなぜ出発しないのだろう。白瀬は何をしているのだろう」という疑問が発せられた(南極大陸に立つ―私の南極探検記 白瀬 矗 (著) 毎日ワンズP100)。一部から不信の声もあったが、白瀬中尉は「山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れるときが来るに違いない」(同P101)と信念を貫き通した。

 今年飛ばぬなら、来年飛ばしてみせよう。晴れる時はかならず来る。