旅と移動・世界×文化(1)日本の文学と映画に描かれた人力車(山崎義光)

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 コロナ禍で移動もままならない日が続いていますが、古今東西、人はどこを目指して旅や移動をし、何を描き表したのでしょう。秋田大学で歴史、芸術、哲学、言語を扱う教員がリレー形式で論じます。

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 文明開化の呼び声とともに近代化した明治期、蒸気船や鉄道で国内外が結ばれ、人や物が速く遠くへ大量に移動できるようになり始めた。その一方、多くの人が集まる都会を移動する乗り物も現れた。

 「大都会とて四方より、入(はいり)こむ人もさまざまなる、中にも別(わけ)て数多きは、人力車夫と学生なり」。坪内逍遙(つぼうち・しょうよう)『当世書生 気質(とうせいしょせい・かたぎ)』(1885年)の一節である。人力車は幕末に用いられ始め、1869(明治2)年に考案されたものが、乗合馬車とともに、徒歩より速く便利な乗り物として急速に各地へ普及した。1875年には全国で11万台と急増。日清戦争後の1896年には21万台に達してピークを迎える。しかし、鉄道や路面電車の整備が進み、タクシーやバスなどの自動車も普及したことで、馬車とともに衰退し、1938(昭和13)年には1万3千台余になったという。(齊藤俊彦『くるまたちの社会史』中公新書)

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 人力車は文学の中でも描かれた。樋口一葉「十三夜(じゅうさんや)」(1895年)はその一つである。東京の下町に住む貧しい士族の娘お関は、高級官吏に嫁いだものの、夫の仕打ちに我慢できず離縁覚悟で実家へ戻る。だが諭されて、帰りに乗った人力車の車夫が幼なじみの録之助だと気づく。かつてお関は彼との結婚を淡く夢みていた。しかし、お関が今の夫と結婚した後、録之助は放蕩(ほうとう)で身を落としていた。

 日清戦争前後のルポ、横山源之助『日本の下層社会』などに記録されたように、車夫には身分の高い者のお抱えもいたが、生活に窮した人たちが多く従事した。泉鏡花「夜行巡査」(1894年)には、股引(ももひき)も履けず裸同然の老車夫が巡査に叱責された挿話が描かれた。

 他方、谷崎潤一郎「秘密」(1911年)は、人力車での移動が都会を迷宮(Labyrinth=ラビリンス=)のように感じさせることを描いた。人力車はアジア各地にも普及した。芥川龍之介は「上海游記」(1925年)に、街にあふれる黄包車(ワンポーツ・人力車)への乗車勧誘を断る「不要(プヤオ)」という言葉が、最初に使った中国語だったと記した。その後、横光利一は小説『上海』に、国際都市の街中を黄包車で移動する人物たちを描いた。これらの作品では乗客に焦点があてられ、車夫は脇役だった。

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 20世紀前半は大衆化が促進した時代で、知識人・都市中間層のみならず、労働者など幅広い社会層が描かれるようになった。そして日本映画の傑作が生まれた。「無法松の一生」(1943年)である。原作は火野葦平(ひの・あしへい)と文学仲間だった岩下俊作(いわした・しゅんさく)の「富島松五郎伝」。主人公の松五郎は学がなく乱暴者の不器用な人力車夫で、バンツマこと阪東妻三郎(ばんどう・つまさぶろう)が演じた。舞台は鉱山と工業で栄えた北九州の中心地で軍都だった小倉(こくら)である。日清戦後から第一次世界大戦が終わる頃までを背景とする。

 松五郎はケガをした少年を助けたことがきっかけで、その軍人一家と親しくなり、家へ出入りするようになる。だが、軍人は急逝し、松五郎は未亡人と坊っちゃんを何くれとなく支えた。印象的なのは大写しされた回転する車輪で、松五郎の躍動感を象徴する。小倉祇園太鼓の祭りで巧みに太鼓を叩くクライマックスは圧巻である。未亡人への愛情を秘めて死ぬ間際、松五郎が人生を回想したラストは多重露光の幻想的な映像で表現した。その後くり返しリメイクされ、山田洋次監督の諸作品など戦後映画に影響を与えた。

 明治から大正期の格差が大きい時代、人力車を介して異なる社会層の人と人とが近づけられ、また引き離される切ない生の悲哀が、時代の変化とともに乗客から車夫へ焦点を移しながら描かれた。

【やまざき・よしみつ】1969年北海道千歳市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(日本近代文学)。主な著作に「報道の時代のなかの島木健作『満洲紀行』」(共著『大正・昭和期における東北の写真文化』)、「大衆社会の「美」に逆らうもの│三島由紀夫の批評的創造│」(共著『問題としての「アメリカ」』)。

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