旅と移動・世界×文化(4)韓国・済州島出身者たちの生活史(高村竜平)

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 韓国・済州島は朝鮮半島最大にして最南端に位置する島である。観光地として、またドラマや映画の撮影地として日本でも頻繁に紹介されるので、ご存じの方も多いだろう。その一方で、たとえば作家の梁石日が『血と骨』や『夜を賭けて』などの自伝的な作品で描いたように、済州島民は戦前から日本への渡航を続け、各地に定着してきた。島の自然は芸術的であるが、農地としては必ずしも生産性の高い土地ではなかった。現在では韓国内でも有数の商品作物生産地帯となっているが、それは1970年代以降の経済発展の後であり、それ以前は出稼ぎが盛んであった。

 筆者はこのような移住の過程を何人かにインタビューした経験があるが、そこで印象的だったのは、済州島内の親類縁者や近隣の住民同士の関係の延長上に、大都市での生活があることだった。1920年代以降、大阪や東京などに済州島民の集住地域が形成されるが、農作業や冠婚葬祭を協力して行っていたネットワークが移住先での住居や職探しに機能したのである。

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 生活の場を求める済州島民の移動はさらに続く。1928年生まれのある男性は、終戦直後から47年ごろまで、ひんぱんに大阪と秋田を往復したという。当時の大阪ではゴム工業に従事する済州島出身者が多く、そこで仕入れた長靴や運動靴などを秋田に運び、コメを購入して大阪に持ち帰っていたのである。また50年前後には宮城県の鳴子温泉付近で焼酎販売と製造に携わっていた。生活のためには手段を選ばず働くのは、当時の人々はみな同じであっただろう。彼は最終的に釧路まで移住した末、大阪に戻りプラスチック加工に携わるようになる(藤永壯ほか「解放直後・在日済州島出身者の生活史調査(7)玄瑽玟さんへのインタビュー記録」上・下『大阪産業大学論集 人文・社会科学編』6、7号、2009より)。

 1960―70年代の済州島は経済的に貧しく財政も不十分であったため、学校、道路や電線などの小規模なインフラ整備に、日本の済州島出身者からも故郷に多くの寄付がなされた。それは現金であったりピアノなどの資材であったり、あるいは所有する土地の提供という形をとることもあった。村々の小学校や公民館の入り口などには必ずといっていいほど、そのような寄付行為の事績を刻んだ石碑が並んでいる。

 その中には、朝鮮総連に関わる人々の名前も含まれる。戦後の南北対立を背景とした在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(総連)の対立の中でも、親族や同郷人のネットワークを通じた故郷との交流を維持した人もいたのである。

 ある済州島出身女性は一家で総連の活動をしており、経営する食堂は総連の活動家のたまり場だったという。その一方で、民団で活動し故郷の親族との交流を維持する一族の男性とも連絡を取り続けていた。その女性の日本生まれの息子の一人は、2001年に初めて済州島を訪問した際に出迎えた親族からまず第一声で「お前たちアカのせいでうちの子供が苦労したんだ!」と言われたという。しかし彼は親族たちに受け入れられ、その後も何回も故郷訪問を続けていた。彼の母のように、総連と民団の対立を超えて一族のつながりを維持する人々がいたからであった(藤永壯ほか「同調査(16)金慶海さんへのインタビュー記録」上・下『大阪産業大学論集 人文・社会科学編』15、16号、2015、16より)。

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 島のうちそと、朝鮮と日本、思想の対立…さまざまな境界を乗り越える努力を、済州島民は行ってきた。その行動原理は、生活の場を求めて越境することを恐れないというものであった。もちろん、そこには数多くの挫折や失敗があっただろうが、全てを知ることはできない。人生を語ることができるのは、生き残った人々だからだ。

 ここに挙げた二人の人生も、決して済州島出身者の典型というわけではなく、むしろ同じ時代の同じ地域の人でも、多様な人生を歩んできていることを示している。それは、一人ひとりが自分の人生を切り拓(ひら)いてきたからだ。その経験は、これからの私たちの生き方を考える道しるべにもなるはずである。済州島民に限らず、特別な人生を生きたわけではない市井の人々の越境する生活史を知る意義は、そこにある。

【たかむら・りょうへい】1968年生まれ、大阪府泉南市出身。秋田大学教育文化学部准教授(文化人類学、朝鮮近現代史)。共著に『復興に抗する-地域開発の経験と東日本大震災後の日本』『済州島を知るための55章』など。

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