旅と移動・世界×文化(5)「ロード・ムービー」が描く米国の姿(中尾信一)

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 「ロード・ムービー」(road movie)とは、文字通り「道」を舞台として旅や移動中のエピソードを語る映画ジャンルである。そこでは目的地にたどり着くことよりも、旅の途中の出来事によって生じる登場人物の内面的変化が重要視される場合が多い。地平線に向かって伸びる一本道を車、バイク、または徒歩で進んでいくという図像は「ロード・ムービー」の典型的な慣習だが、アメリカ合衆国の広大で開けた大地はそんなイメージにふさわしい。したがってこのジャンルは、アメリカ映画史の初期から重要な役割を果たし、豊富な物語の題材を提供し続けてきた。

 そもそも映画とは「移動=運動」を視覚的に記録する媒体である。路上の旅がもたらす経験と意味を伝えるには最適の表現手段だ。つまり「ロード」と「ムービー」の間には相棒のような親密性がある。さらに19世紀末に映画というメディアを生み出したテクノロジーの進歩は、同時期にその動力を蒸気機関からガソリンエンジンへと改良した自動車という乗物を普及させた。そして自動車は、多くの「ロード・ムービー」において必要不可欠な移動手段として登場する。つまり19世紀的な技術革新による別個の発明であった「映画」と「自動車」は、その始まりから蜜月関係にあったのだ。

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 第2次世界大戦後のアメリカ映画史における「ロード・ムービー」の変遷を速足で見ておこう。戦前から続いてきた古典的なハリウッド的映画製作形態の崩壊後、「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる新しい映画作りが模索される。その代表作であり「ロード・ムービー」の古典でもある『イージー・ライダー』(1969年)では、バイクに乗った男ふたりの放浪の旅がつづられる。バイクで疾走する道は、彼らにとって体制からの解放と自由の象徴でもある。彼らの新奇な生き方を嫌悪する者によって主人公が射殺され、乗り手を失ったバイクが道を外れて炎上するという激烈なラストシーンは、この時代の雰囲気をよく映し出している。

 1991年公開の『テルマ&ルイーズ』は、平凡な主婦テルマとウェイトレスのルイーズが週末のドライブ旅行に出かけ、その途中ルイーズがバーで出会った男に性的暴行を受けそうになると、テルマは銃でその男を射殺するという話。犯罪者となった二人がその後絶望的な逃避行を続けるのもまた「ロード・ムービー」のパターンだが、その旅が暗い影を帯びながらもある種の爽快感を感じさせるのは、二人がそこから逃走し抵抗しているのは、彼女らを抑圧する男性中心主義的な社会構造そのものだからだ。フェミニズムの文脈で評価されるこの映画の結末は、追い詰められた二人の乗った車がグランド・キャニオンの崖を飛び越えて永遠に疾走し続けるという幻想的なものだが、それは後に続く女性たちのために誰も走ったことのない道を作るということの暗示でもある。

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 今年の米アカデミー賞作品賞を受賞した『ノマドランド』は「ロード・ムービー」の系譜を受け継ぐ最新の映画である。この物語では、経済不況で家も職も失った高齢女性がキャンピングカーを住居とし、短期の季節労働によって収入を得ながら合衆国各地を移動する。資本主義のシステムから取り残された人々が置かれている「格差社会」を批判しつつ、永続的経済発展の幻想から抜け出そうとする「脱成長」型の生き方が肯定的に示される。仲間たちと助け合いながらも、個人の自由な意志は尊重される「ユートピア」的なライフスタイルが、アメリカ西部の広大な平地を染める美しい朝焼けや夕暮れのシーンと共に描かれる。

 それはかつて「西部劇」という極めてアメリカ的なジャンル映画でよく見た風景を想起させる。「ロード・ムービー」は、そのような「西部劇」との連想によっても、アメリカ的特性とつながっている。

【なかお・しんいち】1965年愛媛県大洲市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(アメリカ文学・映画論)。論文に「快楽・健康・不安―ヘミングウェイと主体構築のテクノロジー」(『アメリカ文学とテクノロジー』)、「「国境の南」の物語―「境界線」の映画的表象をめぐって」(『アメリカ映画のイデオロギー―視覚と娯楽の政治学』)など。

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