旅と移動・世界×文化(6)西行の旅、芭蕉の旅(志立正知)

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芭蕉「おくのほそ道」の足跡
芭蕉「おくのほそ道」の足跡

 旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ


 貞享4(1687)年10月、44歳の芭蕉は東海道を伊勢に向かって旅に出た。死後に『笈(おい)の小文(こぶみ)』としてまとめられた旅の出立(しゅったつ)にあたって、芭蕉は右の句を残している。

 芭蕉が、34歳で得た俳諧宗匠の地位を捨て、新たな句境を求めて深川の芭蕉庵に隠棲(いんせい)したのが37歳。模索の中で芭蕉がたどり着いたのが、「旅」という修行だった。

 芭蕉が最初の旅、『野ざらし紀行』に出立したのは、41歳を迎えた貞享元(1684)年8月。伊勢・伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・木曽・甲斐を回る、8カ月に及ぶ大旅行だった。旅立ちにあたって、芭蕉は新たな句境獲得のためには、たとえ行き倒れになってもという覚悟を示した、有名な一句を残している。


 野ざらしを心に風のしむ身哉


 以後、46歳の時の『おくのほそ道』の旅まで、6年の間、彼は「旅」に身を置き、多くの紀行文を残しながら、蕉風と呼ばれる作風を確立していく。

 風流の精神を求めての芭蕉の「旅」には偉大な先達がいた。平安末期の歌僧西行だ。文武に秀で、鳥羽院に下北面の武士として近侍し、将来を嘱望されていた西行(俗名佐藤義清)が、突然世俗を捨てて出家したのは、保延6(1140)年、23歳の時だった。仏道修行に身を置いた彼が陸奥(みちのく)へと旅だったのは、26歳の頃かと言われている(諸説あって正確なところはわかっていない)。当時の歌人たちが憧れを持って注目していた陸奥(むつ)国の歌枕を、自らの目で確かめることが目的のひとつであったと言われている。


 みちのくのおくゆかしくぞ思ほゆる壺の碑外の浜風


 「壺(つぼ)の碑(いしぶみ)」「外ヶ浜」は、ともに陸奥の最果てにあると想像された歌枕だ。いつかそこを訪ねてみたいという、西行の強い憧れがうかがえる。面白いのは、西行がこうした「旅」を「修行」と呼んでいることだ。『山家集』に収められた陸奥への旅の連作の詞書(ことばがき)は「陸奥国へ修行してまかりけるに」と書き出されている。

 『山家集』の詞書には「修行」という言葉がしばしば登場する。「修行して伊勢にまかりけるに」「四国の方へ修行しけるに」「西の国の方へ修行してまかり侍(はべ)りけるに」。「修行」とは本来「仏の教えしたがって身心を浄化し、悟りをめざすこと」、そこから転じて「托鉢(たくはつ)・勧進(かんじん)をして諸国を歩くこと。行脚(あんぎゃ)」も意味するようになる。西行にとって、数寄(すき)の心(風流心)に導かれて歌枕を訪ね、旅を重ねることが、自らの精神を磨き澄み渡らせる仏道修行でもあった。

 西行が平泉に到着したのは、旧暦の10月12日。雪が烈(はげ)しく降る中、西行はまっすぐに衣川(ころもがわ)へと向かっている。凍てついた川岸で彼の目に映ったのは、奥州藤原氏の館群に重なる、前九年合戦で安倍貞任(さだとう)が籠(こも)った衣川の柵の幻影だった。「河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる、ことがら様変りて、ものを見る心地しけり」


 とりわきて心も凍みて冴えぞ渡る衣河見にきたるけふしも


 『おくのほそ道』では、かつての西行と同じように、旅を「修行」とする意識が強く働いているようだ。道中でしばしば道に踏み迷い、悪路に難渋する旅の様子が語られる。実際には、江戸時代には街道は整備され、徒歩を基準としながらも、道幅はおおむね5~7メートル、都市に近いところでは10メートルに及ぶ場合もあって、人の往来も盛んであった。宿駅には、幕府の公用を支える人足・伝馬が多数用意されていた。『おくのほそ道』の描写は、実態とは異なる場合が少なくない。

 おそらく芭蕉は、近世の街道を歩きながら、中世の西行の目に映った情景を重ね、「修行」としての旅を実現しようとしたのだろう。『おくのほそ道』には、そのような芭蕉の思いが込められている。

【しだち・まさとも】1958年東京都生まれ。秋田大学教育文化学部教授(国文学)。著書に『「平家物語」語り本の方法と位相』、『〈歴史〉を創った秋田藩―モノガタリが生まれるメカニズム』、共著に『西行歌枕―その生涯と名歌の舞台を旅する』『平家物語 〈伝統〉の受容と再創造』など。

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