旅と移動・世界×文化(8)ハムレットが歩む悲劇への道程(佐々木和貴)

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 『ハムレット』という芝居は、実は、「旅」と深く関わっている。

 主人公のデンマーク王子ハムレットは、この芝居で3度旅をする。

 1度目は、父の葬儀のために留学先ドイツから故郷に戻って来る旅だ。だがそこは喪に服するどころか、母ガートルードが叔父クローディアスと早すぎる再婚の宴を開くおぞましい場所と化している。そして、ただちに戻ることも許されずエルシノア城にとどまるハムレットが出会うのは、煉獄(れんごく)からはるばる旅してきたという父王の亡霊だ。

 この亡霊がクローディアスに毒殺されたと告げ、ハムレットに「父の言葉を忘れるな」と命じるとき、悲劇は幕を開ける。

 ところがハムレットは、すぐには父の復讐(ふくしゅう)を果たすことができない。そこにはおそらく、当時の宗教事情も絡んでいるのだろう。

 カトリックでは、人は死後、天国へ迎え入れられる者、地獄へ落とされるもの、そして生前の罪を浄化されるまで煉獄での試練に耐える者に分かれるとされる。他方、プロテスタントは煉獄の存在そのものを否定している。そしてハムレットの留学先が、かの宗教改革の指導者マルティン・ルターが神学を講じていたウィッテンバーグ大学であることを考え合わせれば、ハムレットがこの亡霊を、煉獄ではなく、自分を騙(だま)すために父の姿を借りて地獄から訪れた悪魔ではないかと、疑ったこともうなずけるだろう。

 ◇  ◇

 こうして父の復讐をためらうハムレットは、亡霊の言葉が真実であるという「もっと確かな証拠」を切望することになる。

 そして、この望みがかなえられ、悲劇が大きく動き出すのも、旅の役者たちのおかげなのだ。ハムレットは巡業で城を訪れた彼らに殺人を再現した即興芝居を演じさせ、それを見たクローディアスの反応からついに彼が父を殺したことを確信するのである。だがクローディアスも同時に、ハムレットが秘密を知ったことに気が付き、彼を亡き者にするためにイギリスへ旅立たせる。

 途中機転を利かせて危機を脱し、デンマークへ戻ってきたハムレットは、学友ホレーショに「雀が一羽落ちるにも天の摂理が働いている。・・・覚悟がすべてだ」と語ることになる。この2度目の旅のおかげで、ハムレットはこれまでの迷いや恐れを捨てて、悲劇の主人公にふさわしい、自らの宿命と向き合う勇気を得るのである。

 さらに悲劇の幕を閉じるのもまた、旅する者たちだ。まず遊学先のフランスから戻ってきたレアティーズ。彼はハムレットの恋人オフィーリアの兄だが、騙されてクローディアスの手先となり、ハムレットに致命傷を負わせる。次にノルウェー王子フォーティンブラス。ハムレットがついにクローディアスを倒したのち、死期を悟って後継者に指名する彼もまた、ポーランド遠征を終えて帰国する旅の途中である。

 だが誰よりも、「あとは沈黙」と言い残して息絶えるハムレット。彼こそ、最も遠くまで旅する者と言えるかもしれない。その3度目の旅の行方は、「行けば二度とは戻ってこない未知の国」なのだから。

 ◇  ◇

 こうして『ハムレット』という悲劇は終わる。死出(しで)の旅に従容(しょうよう)として赴くハムレットの姿を見て、私たちは深い愛惜の念を抱くだろう。だが幕が下りたあと、私たちはさらに、こうしたコロナ禍であればなおさらのこと、自分の生がこれからいかなる途(みち)をたどり、どのような終わりを迎えるのか、その計りがたさに思いを馳(は)せるのではないだろうか。

 そしてそのとき私たちは、ふと気がつくことだろう。『ハムレット』という芝居には、ハムレットの旅だけでなく、実は、私たち一人ひとりの「人生という旅」が映し出されていたことに。

【ささき・かずき】1955年秋田市生まれ。秋田大学教育文化学部特別教授(英文学・英国近代演劇)。日本シェイクスピア協会会員。編著に『イギリス王政復古演劇案内』(松柏社)など、シェイクスピアおよび英国初期近代演劇に関する著書・論文多数。

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