旅と移動・世界×文化(9)修学旅行が生んだ帝国日本の幻影(羽田朝子)

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 修学旅行は日本人の多くが青少年期に経験する「旅と移動」であろう。今や一種の通過儀礼ともなっている修学旅行は、近代的な学校制度の普及とほぼ同時に始まった。明治中期に長距離遠足の形で生まれ、19世紀末の鉄道開通により宿泊を伴う旅行に発展し、大正から昭和にかけて全国的に普及した。

 戦前、一般に修学旅行の見学先は自然景勝のほか都市に備わる近代文明施設が中心であり、日清・日露戦争を経た後は皇室関連の建物や陵墓、または軍事施設が組み入れられた。修学旅行には、近代化のための人材養成と国民意識の涵養(かんよう)という要素が含まれていたのだ。

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 日露戦争直後の1906年からは、日本が進出を始めた満洲(まんしゅう)方面への修学旅行が行われるようになった。これには将来の日本を担う青年に国威の及んだ地域を見学させるという意図が含まれており、現地の地理や史跡の見学のほか、日露戦争の戦跡巡りが行われた。

 この満洲への修学旅行は、政府や軍の後押しにより、師範学校や商業学校、中学校や女学校も含む多くの学校の恒例行事の一つとして定着していった。

 1932年に満洲国が成立すると、日本国内では空前の満洲ブームが巻き起こり、その発展ぶりを一目見ようと観光客が殺到した。とくに国都に指定された新京(現・長春)や満鉄の超特急列車あじあ号は「躍進満洲」の象徴となった。

 昭和初期の不況により国内での就職機会が限られていた生徒にとって、満洲国は格好の新天地であった。そのため、この時期の修学旅行は就職のための下見旅行の性格も帯びるようになった。生徒たちは旅行中、満洲国の発展と先輩たちの活躍を心に刻み、帰国後の報告会では、その見聞に後輩たちが意気軒昂(けんこう)として聞き入ったという。

 同じ頃、満洲国政府は国家の基盤を固める人材養成のため、日本へ官費留学生を派遣していた。そして日本側は高等教育機関の卒業年次に至った満洲国留学生に対し、日本での学びの総仕上げとして、各地を周遊する修学旅行を実施したのである。

 この旅行は日本政府の全面的な補助により行われ、その目的は留学生たちに近代発展を遂げた日本の姿を見せ、日満親善の必要性を体感させることにあった。そのため見学場所は各地の官庁、大学や博物館など文化施設に加え、新聞社や百貨店、民間企業や工場など商工業施設にも重点が置かれた。

 1937年に日中戦争が勃発すると、日本ではナショナリズムがさらに高まった。神社参拝に国民精神の涵養の効果があるとされ、とくに伊勢神宮、橿原(かしはら)神宮、宮崎神宮は「聖地」として全国から大勢の参拝者が詰めかけた。満洲国留学生の修学旅行もこの「聖地巡り」ブームの影響を受け、これら神宮参拝が規定コースとなった。

 満洲国の留学生は民族主義的な葛藤を抱えながらも、将来自分たちが祖国の発展を担うという自負があり、旅行を通じて近代国家のモデルを学ぼうと、日本の経済発展や国家体制について詳細に観察した。「聖地」を訪れた際には、そこに参拝する大勢の日本人の姿から一致団結した国民意識を感じ取り、大きな関心を寄せたのである。

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 近代化が疑う余地のない取り組むべき課題とされた当時にあって、広大な国土と豊富な資源を擁し躍進せんとする満洲国や、アジアでいち早く近代国家の建設をなしとげた帝国日本の幻影は、その時代を生きる青年たちの心を惹(ひ)きつけてやまなかった。そして修学旅行は、その思いを増幅させるものとして利用されたのだ。

 ただしその幻影は、1945年8月の日本の敗戦とともに崩壊した。日本は、満洲で開発した鉄道や炭鉱、製鉄業など各種のインフラや産業を、すべて放棄した。これらは後の中華人民共和国にも引き継がれたが、日中の間には歴史的に大きな傷痕が残されることとなった。

 現在のコロナ禍においては、修学旅行や留学が難しくなり、若者の異文化体験の機会が失われている。しかしこれを機に歴史を振り返り、あるべき異文化交流や国際理解について考えて欲しい。

【はねだ・あさこ】1978年福島市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(中国近現代文学)。主な著作に「満洲国留学生の日本見学旅行記―在日留学生のみた「帝国日本」」(共著『漂泊の叙事―一九四〇年代東アジアにおける分裂と接触』)、『奈良女子高等師範学校とアジアの留学生』(共著)。

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