旅と移動・世界×文化(11)秀吉・家康時代、佐竹氏の軍事移動(渡辺英夫)

お気に入りに登録
※写真クリックで拡大表示します

 天下人(てんかびと)太閤秀吉は、全国の戦国武将たちにそれまでとは比較にならないほど頻繁に長距離の移動を余儀なくさせた。大名たちは秀吉のもとに妻子を差し出し、あらぬ嫌疑をかけられぬよう、随時、京大坂に向けご機嫌伺(うかが)いの旅に出た。常陸(茨城)時代の佐竹氏も例外ではなかった。なかでも最長の移動は、文禄元(1592)年朝鮮出兵令による肥前名護屋(佐賀県唐津市)への出陣だった。

 こうした戦乱に伴う軍事移動はその後も続き、全国の大名たちを一斉に動かした最後の騒乱が大坂冬夏、両度の陣だった。秋田藩初代藩主佐竹義宣(よしのぶ)は、慶長19(1614)年11月、大坂に着陣し、同28日、今福の戦いで家老の渋江政光を戦死させるなど激しく戦っている。その後、徳川方・豊臣方双方が和睦(わぼく)し、佐竹勢は翌年2月、一旦(いったん)帰国する。しかしそれも束(つか)の間(ま)、4月には再び秋田を発(た)って夏の陣に向かった。だが、佐竹勢が大坂に着いたのは豊臣秀頼とその母淀殿が自刃して果てた5月8日の前日だった。

 ◇  ◇

 家康による戦後処理が続くなか、義宣は国許(くにもと)の家老梅津憲忠に宛て、「ゑぞが嶋(北海道)」への転封を命じられるかもしれないと不安を覗(のぞ)かせている。だが、その心配は杞憂(きゆう)に終わった。家康より帰国が許され、京を発ったのは6月23日だった。このとき義宣は、日本海沿岸を北上する北国道を選んでいる。この移動の最中7月13日、元号は慶長から元和へと改まる。

 翌元和2年2月12日夜、従兄弟(いとこ)の伊達政宗から書が届く。家康の病気見舞いに将軍秀忠が駿府(すんぷ)=静岡市=に向かうので、政宗も行くという。このとき義宣は男鹿に狩猟に出かけていた。急ぎ帰城し供揃(ともぞろ)えを命じると、18日には秋田を発って28日に江戸に着き、3月2日、駿府に至って5日、家康に面会して病状を見舞っている。17日、秀忠より帰参を許され、義宣は江戸へ戻った。4月13日、家康が亡くなり、5月1日、帰国許可。9日に江戸を出て22日、秋田に帰城するも、8月10日には再び江戸に向かっている。

 元和3年の正月を江戸で迎えると、この年はそれまでにも増して慌ただしい移動の年となる。正月17日、江戸を発って2月に帰国。4月、再び江戸に戻ると、6月には将軍徳川秀忠の上洛に供奉(ぐぶ)して京に至り、9月下旬、江戸に戻った。そして、半年ほど江戸で過ごした後、翌元和4年3月23日、江戸を発って4月上旬、秋田に帰っている。

 ◇  ◇

 この時期、こうした過密な長距離移動は佐竹氏に限ったことではなかった。全国の大名たちが同様に、多くの供を従えて移動を繰り返した。騎馬の武将はともかく、歩行で随従(ずいじゅう)する平侍や足軽たちの健脚に驚かされる。だが、彼らよりもっと過酷な移動を繰り返した者たちがいた。飛脚たちである。

 義宣たちの動静が詳しくわかるのも、国許の家老たちと頻繁に書状をやり取りしたからで、その書を送り届けたのが飛脚だった。秋田藩では足軽や小人(こびと)とよばれる者たちがこの役目を負っていた。ともに武士に準じる士分格の身分で、当時、江戸と国許で書をやり取りする場合、手紙を届けると1日だけ休みが与えられ、その翌日には返書を携えて帰途につくのが一般的だった。彼らは秋田と江戸の間を大体8日ないし9日で走っている。これを1日の休息を挟んで往復するのだから驚異的な持久力である。片道7日で走ると小判一両の褒美が与えられる代わりに通常より遅れると罰せられるという厳しい役目だった。

 ◇  ◇

 この時期、羽州街道はまだ完成していない。元和6年には刈和野に藩主専用の御座船3艘(そう)を配備した記録があり、同8年10月には江戸からの帰路、義宣はここから乗船し秋田市仁井田の目長田まで下っている。寛永元(1624)年6月、秋田藩は土崎湊で御座船2艘(そう)を建造し、11月28日、これを上流の横手市沼館に配備しようと計画したが、雄物川が凍り付いてできず、その後の雨で氷が溶け、12月3日、ようやくこれを上(のぼ)せている。この後、沼館からの乗船が試みられ、湯沢市岩崎から浅舞を経て沼館に至る道筋が整備される。大名駕籠(かご)が登場する以前、わずかの精鋭を従えた騎馬移動の様子が窺(うかが)えるだろう。

【わたなべ・ひでお】1956年栃木県小山市生まれ。秋田大学教育文化学部教授(日本近世史)。主な著書に共著『秋田県の歴史』(山川出版社、2001年)、編著『横手市史 通史編 近世』(横手市、2010年)、編著『秋田の近世近代』(高志書院、2015年)、単著『シリーズ藩物語 秋田藩』(現代書館、2019年)。

秋田の最新ニュース