YOSHITAKAコラム④満員のドームで抱いた違和感、そして渡英

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Dance under the Moon④
満員のドームで抱いた違和感、そして渡英

文・YOSHITAKA

ニューヨーク生活、そして世界一周ダンス放浪の旅を終えて2009年9月10日に日本へ帰国した。4年前に米国へ旅立ったのとちょうど同じ日だった。
4年分の経験と歳を重ね、僕は28歳になっていた。

住む場所は決まっておらず、取りあえず都内の大学に通う弟の家に居候させてもらうことにした。兄とはいえ、キューバで真っ黒に日焼けしたボサボサ頭の男を、6畳とキッチンだけの部屋によく何カ月も居させてくれたと思う。後から聞いたところによると、いつまでも居座るので「こいつマジか」と思っていたらしいが。
結局半年ほどそこに住んだ後、練馬区桜台のアパートを借りて生活を始めた。

以前所属していた事務所は辞めており、すぐにダンスの仕事が入ってくるわけではなかった。生活費を稼ぐため、バイトを始めた。ダンスのインストラクター、テニスコーチ、パチンコ店やマクドナルドの店員。その他日雇いの仕事もやった。

ありがたいことに、師匠のHorieさんが自分のダンスレッスンにアシスタントとして呼んでくれた。Stax Groove というUK Jazz DanceグループのShunさんは、毎月目黒で開いているクラブイベントに僕を呼んでくれ、オーガナイズチームの一員としてイベントの運営やパフォーマンスをさせてくれた。

そうやって少しずつ日本の社会に、東京のダンスシーンに自分を馴染ませ、ネットワークを再構築していった。

(2010年に東京のダンサーたちと制作したUK Jazz Dance映像作品)

SMAPのバックダンサーとして


2010年5月のある夜、練習からの帰り道に携帯電話が鳴った。Shunさんからだった。依頼を受けた仕事が他の仕事とかぶってしまい、代わりにやれないかという。僕は迷わず引き受けた。
それはSMAPの全国ツアーでバックダンサーとして踊る仕事だった。

もし、読者の中に将来プロのダンサーになりたいと思っているが人がいたら、覚えておいてほしいことがある。
バレエ、ジャズ、ストリートダンスを一通り、仕事で使える以上のレベルに鍛えておくのは大前提。なおかつダンサーとして個性を磨き、自分の実力や特性をできるだけ多くのプロダンサーや振付家に知っておいてもらうことが大切だ。

この時、Shunさんは、自分と同じくらいの身長で、ダンスのレベルや個性も知っていて、安心して紹介できると判断したから僕に仕事を振ってくれたのだと思う。そのことがとてもありがたかった。

リハーサルは約2カ月にわたり、ほぼ毎日行われた。そして全国5都市を回る夏のツアーが始まった。
ツアー皮切りの札幌公演の初日は、リハーサルが当日朝まで終わらず、睡眠時間が1時間しかなかった。大変なことが多かったけれど、とても楽しくて、貴重な体験をたくさんさせてもらった。

5万5千人が東京ドームの客席を埋めた光景は今でも忘れられない。
観客の振るペンライトが満天に広がる星々のようにとても綺麗で、ステージで踊りながら感動した。
子どもの頃から知っているたくさんの曲やその振付を、SMAP本人たちと踊らせてもらえることに不思議な気持ちがした。

ツアー中にダンサーたちがサプライズで誕生日を祝ってくれた


そんな日々を過ごす中、微かに、でも徐々にはっきりと、頭の片隅に違和感を覚えるようになった。最初にそれを感じたのは、満員のドームのステージで踊っている時のこと。少しずつ余裕ができてきて、ふと客席のお客さんの顔が見えた。当たり前といえばその通りだが、自分がどんなに必死に踊っても、お客さんは全員、主役のアーティストを見ていた。
ここは、もし自分が踊れなくなったとしても、すぐに誰かが代わり、回っていく世界。

ニューヨークへ行く前にやっていたミュージカルのアンサンブルもそうだった。個性を出さずに、決められた振付を決められた場所で毎回正確にこなすことを求められる世界。
僕は同じ場所に戻っていた。

バックダンサーの仕事は毎日あるわけではない。ダンスの仕事がない日は、スケジュール調整のしやすい、日雇いのポスティングやマクドナルド店員などのバイトをしていた。アメリカでは誰でもやれる簡単な仕事の事をマックジョブと呼ぶ。もちろん実際にやってみるとマックの仕事はそんな簡単なものではない。

しかし、華やかな満員のドームで踊った次の日に、マクドナルドで高校生アルバイトに混じってハンバーガーを黙々と作っていると、その落差にもやもやとくるものがあった。

自分は海外に長く住み、ダンサーとしてさまざまな経験を積み、もうすぐ30歳になる。ここでこうしているのは正しいことなのだろうかと考えながら、大量のフライドポテトを揚げ続けた。

突然訪れたダンス人生の危機


SMAPは2010年の全国ツアーの後、初の海外公演となる上海公演が予定されていたが、諸事情により中止となった。その翌年に北京公演が決まり、ありがたいことに再度そのバックダンサーとして呼んでもらえることになった。2011年夏、再びリハーサルの日々が始まった。

毎日10時間ほど踊る生活が続いていたある朝、突然激しい痛みで目を覚ました。どの体勢になっても腰が酷く痛み、寝ていることができない。ベッドから出ようとしたが、立つこともできない。
中学校のテニスの部活で最初に痛めて以来、腰痛を常に抱えていた。最近は痛みが増してきたなと思っていた矢先に、とうとう爆発した。

まずリハーサルに遅れる連絡をしてから、這うようにして最寄りの整形外科に向かった。レントゲンを撮り、少しでも動けるようにと背骨の近くに強力な麻酔を打ってもらい、痛み止めを飲み、リハーサルへ向かった。後日撮ったMRIの画像を見ると、見事に椎間板の一部が飛び出て、神経を圧迫していた。腰椎椎間板ヘルニアだった。

幸いなことに、今回のツアーの振付は去年覚えたものも多かった。振付師に相談し、なんとか1~2週間は見学しながら新しいフォーメーションや構成を頭に入れ、本番では踊れるように体を回復させていくことを了承してもらった。

この頃、リハーサルにNHK「プロフェッショナル」のカメラが入っていた。後日その放送を見たら、みんなが躍っている横で、ただ突っ立って見ている僕の姿がしっかり映っていた。

通院しながら痛みが少し収まってきた頃、近くの区営プールに通い、ひたすら水中ウォーキングをしてリハビリに励んだ。鍼治療も受けた。
発症から2週間ほどたち、少しずつ踊れるようになってきた。
北京には大量の痛み止めと座薬を持って行き、何とか最後まで踊りきった。

その年の11月に東京ドームであったSMAPの20周年コンサートにも参加させてもらった。この仕事では、他のダンサーやミュージシャン、スタッフはもちろん、アーティストのプロ意識、その覚悟を間近で感じることができた。楽しかっただけでなく、とても光栄な記憶として心に残っている。

2012年2月には、韓国最大のストリートダンス大会で、日韓合同UK Jazz Danceチームとしてパフォーマンスさせてもらえることになった。
Stax GrooveのMuneさん、Jazzy SportのCryberと一緒に飛んだ韓国は、ものすごく寒かった。
初日は温かい韓国料理を食べ、深夜にスタジオで韓国人ダンサーFlextap、B Blueとリハーサル。2日目は韓国のUK Jazz Dance界の大御所Bopster ScatのDuckyに誘われ彼の映像プロジェクトの撮影に参加した。

(Just Dance - Circle Inspiration)

3日目、会場でリハーサルを終え、控室で映像を撮ったりしながらくつろいでいると、突然舞台上で自分たちの曲が始まってしまった。ステージへダッシュし、何とか本番を踊りきった。
この旅にはニューヨークで知り合ったAkiも同行しカメラを回してくれ、後日ドキュメンタリー映像を制作した。

(韓国公演ドキュメンタリー映像)

この時期、腰痛が悪化したことで、今までと同じように体を酷使していてはもたないと悟った。人生で初めて、ダンサーを続けていくことに危機を感じた。リハビリをしながら、自分の体の動かし方、ストレッチ、トレーニング方法を徹底的に見直した。そうすることがダンサーであり続けるための絶対条件だった。
しかし、どんなに体を大切にしても、いつまた動かなくなるか分からない。

このまま終わるのはあり得ない


日本に帰ってきて2年間、東京でダンサー生活を過ごす中ではっきりとしてきたことがあった。
自分が本当になりたいダンサー像。それは自分にしかできない踊りを踊るダンサー。自分が躍るからこそ意味が生まれるダンサー。つまり表現者だった。
誰かに決められたことを、他の誰にでも替えの効くようなことを、これから一生やっていくわけにはいかない。

実際には、こういう心境にすんなりと達したわけではない。日々、もやもやと渦巻く違和感をうまく処理することができず、葛藤し、苦しんだ。
バイトと深夜公園で行う孤独なダンス練習以外は、ほぼ家から出なくなった。というか、出ることができなかった。ただひたすらインターネットやレンタルDVDを見て過ごした。明らかに引きこもりになっていた。

SNSを見ると、かつてニューヨークや日本で一緒に踊っていたダンサーたちが世界中で大活躍していた。
自分がこのまま終わる、ということはあり得なかった。
そうなったら生きている意味がない。
では、どうするのか。

自分が本当になりたいと思う表現者になるしか、生きる道はない。
自分にしかできない踊りを手に入れなくてはならない。

そのためには、自分の持つ最大の武器、UK Jazz Danceを一生使えるものにするため、再びイギリスに行かなくてはならないと悟った。

この時、30歳になっていた。
イギリスのワーキングホリデービザを申請できる年齢の上限が30歳。イギリスはワーホリの滞在先として一番人気があり、抽選の倍率が高い。このタイミングはラストチャンスだった。じたばたしてもしょうがないので、2012年が明けた直後に申請し、結果を待った。
数日後、申請が通ったという通知が届いた。ああ、これでまだ先へ進めると思った。

それから渡英するための準備を始め、約2年住んだ桜台のアパートを引き払い、イギリスへ向けて飛び立った。

UK Jazzのレジェンドたちと過ごす日々


ロンドンに着いたのはオリンピックを控えた2012年4月20日だった。
3年ぶり、2回目のロンドン。そして今回は2年間の滞在。

着いた直後は、前回の滞在時に一緒に踊ったダンサーMakiの家に居候させてもらった。久しぶりに会うと、彼女はもう結婚していて、可愛い赤ちゃんまでいた。あんまり長居するわけにもいかず、急いでインターネットで住む場所を探した。
1週間後、ロンドン中心部に近いLambeth Northという地域に部屋を見つけて、そこで生活を始めた。

ロンドンで暮らし始めてすぐに、僕の「大先生」であるIrven Lewisが連絡をくれ、しょっちゅう撮影やジムでのプライベートトレーニングに誘ってもらった。彼は本当に不思議な魅力を持つ人間だ。思いついたタイミングでいろんな所へ連れ出された。
彼はダンスだけでなく、写真や映像、あらゆるクリエイティブを追求していて、Jazzyなライフスタイルというものを僕に教えてくれた。

IrvenはBrothers in Jazzというチームを結成し、UK Jazz Danceの中にBe Bopと呼ばれる新たなスタイルを生み出した。その評判は遠く日本まで届き、TRFのSAMさんやHorieさんがわざわざロンドンまで習いに来るほどだった。彼と過ごしていると、そうしたムーブメントを起こす原動力を感じることができた。

2012年Irven Lewisとロンドン裏路地での撮影風景


Irvenと一緒にBe Bopスタイルを生み出したWayne Jamesという人物がいる。彼が毎週木曜に開いていたレッスンには2年間欠かさず通った。Irvenが自由なスタイルで踊るのとは違い、Wayneは基本に忠実で、テクニックを細かく教えてくれた。2年の間、毎週ほぼ同じメニュー、振付を延々と繰り返した。そして毎回めちゃくちゃ怒られた。一度怒りすぎてレッスンが中止になったことさえあった。

バレエを強化するため、ロイヤルオペラハウスのBallet Blackが開催していたプロダンサー向けレッスンにも毎週通った。
そして毎月1回、ロンドンで開催されるUK Jazz Danceイベント、Shiftless Shuffleに出掛け、オリジナルUK Jazz Dancerたちととことん踊り合った。
他にもNottinghamで開催されるOut To Lunchや、年数回開催される伝説的なUK JazzイベントDingwallsなどにも足を運んだ。

2012年DingwallsにてIrven Lewis撮影

(UK Jazz Dance Report 2013)

渡英2年目の飛躍


渡英から1年が過ぎ、2年目に入った頃、あるオーディションに呼ばれた。連絡をくれたエージェントは「あるCMでタップダンサーを探している。タップじゃなくていいから、お前のUK Jazz Danceを思いっきり見せてこい」と言う。
僕は自分が踊りやすい曲を持って行き、カメラの前で約30秒、全力で踊った。
数日後、プロダクションから電話がかかってきて、出演決定を伝えられた。
それは2014年にオランダのビールメーカー・ハイネケンが全世界で放映したコマーシャルフィルムだった。

後から聞くと、イギリス中から何百人とタップダンサーを集めてオーディションを行ったらしい。しかし、僕のUK Jazz Danceの速くて激しいステップが、監督やハイネケンの担当者のイメージに一番近く、2次オーディションもなく決まったのだという。


Heineken Odyssey Casting Tap dancer from Elissa Singstock on Vimeo.

(Heineken CMオーディションの”再現”プロモーション映像)

イギリス2年目は、この他にもソニーのブラジルW杯向けコマーシャルフィルムや、ナイキの広告写真モデル、全英ファッションショーのCatwalkモデルなど、大きな仕事が次々に来た。1年目にひたすらUK Jazz Danceを磨き、2年目になってその成果が現れ始めた。
生活費を稼ぐためにやっていたバーテンダーのアルバイトをやめ、ダンスだけで生活できるようになった。ちなみに撮影期間2週間のハイネケンCMのギャラは、SMAPのバックダンサーで得た一夏のギャラのほぼ倍だった。

前回のロンドン滞在時にJazzCotechのリハーサルに参加させてくれたPerry Louisが、今度はドイツやスロベニアなど国外のパフォーマンスのメンバーに加えてくれた。ハンブルグ(ドイツ)のMojo Clubやリュブリャナ(スロベニア)にある大きな倉庫みたいなクラブで、UK Jazz Danceの生き字引であるダンサーたちと共に踊ったことは、貴重な経験となった。

ハンブルグのMojo Clubでの本番前にJazzCotech Dancersと

Perry は、UK Jazzシーンの大御所アーティストIncognitoのミュージックビデオの撮影にも声を掛けてくれ、出演することができた。

(出演したIncognitoミュージックビデオのメイキング映像)

Irvenは不思議な男だと先に書いたが、印象的なエピソードがある。
ハイネケンのCM出演が決まり、撮影場所のバルセロナへ出発する数日前、彼と一緒にジムでトレーニングをしていた時のことだ。僕のダンスを見ていたIrvenが「お前の踊りは大き過ぎてエネルギーを無駄にしている。もっとコンパクトに、足元の狭い範囲で力を集中させるように踊れ」とアドバイスをくれた。

バルセロナへ出発し、海岸に作られた巨大な撮影セットに行ってみると、監督から「このテーブルの上でとにかく激しいステップを踊ってくれ」と言われた。それは直径1メートルもない不安定で小さな丸テーブルだった。
この時ほどIrvenの先を見る不思議な力に驚き、感謝したことはない。彼から教えてもらったことをひたすら思い出しながら撮影に臨み、無事怪我もなく終えることができた。

(Heineken 2014年全世界向けコマーシャル “Odyssey”)

IrvenとWayne、この2人から2年間で教えてもらったことの価値は計り知れない。
そしてBrothers in Jazzのもう一人のメンバーTrevorにも一度だけ会うことができた。それは彼の結婚式だった。
Irvenに突然「綺麗なスーツを着てこい」と呼び出され、行ってみると、結婚式の写真撮影のアシスタントをやるように言われた。古い映像でしか見たことがなかったTrevorとの初対面が彼の結婚式という、不思議な巡り合わせだったが、とにかく心から光栄で嬉しかった。
別れ際、彼がそっと教えてくれたダンスを上達させる秘密のアドバイスは、もちろん今でも覚えている。

Brothers in Jazzの3人と。左からIrven、Trevor、Wayne


ワーホリで滞在できる2年が終わる頃、大きな仕事が取れるようになってきたことをエージェントが評価し、次のビザを申請してくれることになった。ひとまずロンドン生活を終え、アパートを整理して、数カ月後に戻る約束で何人かの友だちの家に荷物を預かってもらった。

2014年4月8日にロンドンを離れ、カナリア諸島でゆっくり日光を浴びて休暇を過ごし、ドイツのデュッセルドルフにいる友人のダンサー瀧森悠生を訪ねてから日本へ戻った。4月25日のことだった。

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