旅と移動・世界×文化(12)放浪のヴェネツィア人画家(佐々木千佳)
人と物の移動がかつてないほどに活発化したルネサンス期には、イタリアの都市国家間で芸術家や芸術作品の移動も増加し始めた。聖堂や邸宅などを装飾するため、君主や富裕市民層は優れた芸術家を求め、芸術家たちも越境した。ミラノの宮廷画家に雇用されたレオナルド・ダ・ヴィンチや、ヴェネツィア政府の外交政策の一環でオスマン帝国に派遣され肖像画制作にあたったジェンティーレ・ベッリーニのような画家もいる。
しかし大半は生地に近い都市へ移動した後、そこで活動の機会を得るのが常であった。芸術家の越境の契機は、芸術庇護(ひご)者との関係に大きく結びついていたのである。
ヴェネツィア生まれの画家ロレンツォ・ロット(1480年頃―1556または57年)の痕跡の多くは生地以外に遺(のこ)されている。赴く先々の地方様式を柔軟に吸収し、独自の図像とあわせた深淵な情緒性を描き出し、放浪の天才画家とも称されてきた。
ロットの制作地はイタリア中部マルケ地方のレカナーティ、ヴァチカン宮殿、再びマルケと移り、1513~25年にロンバルディア地方ベルガモで才能を開花させた。以降、マルケ地方やトレヴィーゾに拠点を置きつつ地方パトロンの注文に応えた。その後、帰郷を果たすも、当時はティツィアーノが圧倒的な名声を誇っていただけにわずかな注文しか得られず、49年にロレートへ完全に移住し、同地の修道僧として貧困のうちに没した。
◇ ◇
ヴェネツィアで最古の聖堂の一つサン・ジャコモ(聖ヤコブ)・ダッロリオ聖堂内陣主祭壇には、ロットの≪聖母子と諸聖人≫がひっそりと佇(たたず)む。晩年の一時滞在時に制作され、直後にマルケへ出発して二度と故郷の地を踏むことがなかった画家の、ヴェネツィア最後の作品である。
ここには以前マルケで制作した別の同主題作品と同様の構図が採用されており、それを注文主である聖母の同信会(聖堂内に祭壇を寄進した互助組織)の嗜好(しこう)に沿い、より伝統的な図像表現として控えめに整えている。光と影の描写や人物動勢が影を潜め、落ち着いた色調に留(とど)まる表現は、制作時に病を患っていた画家自身の状況とも結びつけられる。
しかし、細部に目を向けると画家特有のユニークな図像表現が目に入ってくる。聖母の左側に巡礼杖を抱えて立つ使徒ヤコブの足元には、通常聖人が被(かぶ)る帽子が置かれている。聖ヤコブの遺骸が眠るサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の印である帆立貝が施され、それは食料や手形を入れる頭陀袋(ずだぶくろ)と瓢箪(ひょうたん)の上に覆い被さっている。
これは30年ほど前にレカナーティで制作した聖ヤコブを描いた作品前景の同じモチーフを再登場させたものだ。以前の作品では、サンティアゴのみならず、ロレートの巡礼地「聖母の家」も暗示していた。そこでも頭陀袋があたかも世俗、地上的な糧食の不要性を示すかのように投げ置かれて描かれていた。この険しい巡礼の道行きを細部で強調する手法は、ヤコブ同信会が設置されていたサン・ジャコモ聖堂が、当時隆盛を極めたサンティアゴ巡礼への出発地かつ宿場となっていたヴェネツィアにおける重要な拠点であったことと無縁ではない。
≪聖母子と諸聖人≫の聖母が座る玉座前面の紙片には、注文者の同信会管理者の名がある。ロットは作品の大部分に署名を残したが、多くはヴェネツィア人画家たちがその出自を誇るかのように描いた、カルッテリーノ(紙片)を画面に張り付ける手法を踏襲した。だが本作ではそこに画家の名が欠けている。自ら創出した巡礼帽モチーフを傍らに挿入することでその存在の証しとしているかのようだ。
また、その後方に玉座に向かって大きく伸びる影が描かれているのに気づく。これは聖人の影であると同時に、地方で描いた手前の独創的な図像レパートリーを目立たせてもいる。
異郷に身を置くことは、我々の小さな旅や移動でさえそうであるように、後にしてきた場所の伝統や環境と関係を結び直すことでもある。
ロットにとっての移動は、しばしば図像が発する意味に重層性をもたらした。また各地で獲得してきた個性と、ヴェネツィア人としてのアイデンティティーとを強く意識させるものであったに違いない。