旅と移動・世界×文化(15)中国北部 遊牧民と農耕民の攻防(内田昌功)

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 ユーラシア大陸東部では、世界屈指の遊牧地域であるモンゴル高原と、最大級の農耕地域である中国華北平原が近距離で隣接している。そのため世界史上、遊牧民と農耕民が最も激しく衝突し、また最も深く結びついた地域であった。両地域を戦わせた最大の理由が馬である。本来中国は経済力と人口で圧倒的な力を持つが、馬の存在が遊牧世界に強大な軍事力をもたらしたことで、両地域の関係は不安定なものになったのである。

 その関係は実に劇的な形で始まる。モンゴルの遊牧民匈奴(きょうど)は紀元前4世紀から史料に現れ始めるが、紀元前209年に冒頓(ぼくとつ)が王に立つと初めてモンゴル高原の統一に成功する。一方、中国では紀元前221年に秦(しん)が統一を果たし、次いで短命に終わった秦に代わり、漢が紀元前202年に建国される。農牧両地域に相次いで統一国家が誕生したのである。

 二つの大国は引き寄せられるように戦争へと向かい、紀元前200年、漢と匈奴は国境付近で正面から衝突する(白登山=はくとうさん=の戦い)。冒頓率いる匈奴は騎兵を中心とする40万、高祖劉邦(りゅうほう)の前漢は歩兵中心の32万、大規模な戦いとなったが、戦況は一方的であった。匈奴は騎兵の機動力を生かし、巧みな戦術で劉邦の本軍をとらえ、7日間にわたって包囲する。劉邦は辛うじて脱出するものの、前漢は匈奴に対し毎年絹や穀物を送ることを約束させられる。

 屈辱的な条約を結ばされた前漢は馬の重要性を認識し、騎兵の育成を行う。70年ほど後の武帝(ぶてい)の時代、準備が整った漢は匈奴に対し攻勢に転じ、10年以上にわたる戦争の末、従属的関係から脱することに成功する。漢と匈奴はこれ以後も対立を繰り返すが、次第に漢が優勢となり、1世紀半ばには匈奴が分裂、南匈奴が後漢に従属し、北匈奴は1世紀の終わりに滅ぼされ、300年に及ぶ攻防はついに漢の勝利に終わる。

 しかしこれが最終的な決着とはならなかった。その後、匈奴は200年間にわたり後漢とその後を継いだ魏(ぎ)、西晋(せいしん)によって支配されるが、4世紀初め、西晋が内乱によって混乱に陥ると、独立を宣言し、独自の王朝を建国する。これ以降、中国北部は諸民族が割拠する五胡十六国時代となり、さらに遊牧民政権と漢族政権が南北に対峙(たいじ)する南北朝時代に進む。この間、遊牧民の中心勢力は匈奴から鮮卑(せんぴ)に移り、やがて鮮卑系の隋唐王朝により再統一が成し遂げられる。

 ◇  ◇

 五胡十六国時代に先立つ3世紀、中国で馬に関する大きな発明が生まれる。乗馬時に足を乗せる鐙(あぶみ)が登場するのである。恐らくは乗馬に不慣れな農耕民が馬に乗る際の足掛けとして、あるいは馬上で体勢を安定させるために使い始めたものと推測される。これが騎馬戦術を思わぬ方向へ発展させる。鐙の発明により馬上でバランスを保つことが容易になったことで、騎士は槍(やり)などの武器を扱いやすくなり、重い防具を身に付けることができるようになった。鐙は遊牧民にも受け入れられ、騎馬戦術はさらに進化し、乗馬に熟達した遊牧民を一層有利にする結果となった。

 唐以降も引き続き、遊牧民国家と中国の王朝の攻防が繰り広げられる。基本的には軍事にまさる遊牧民が攻め、漢族の王朝が守るという趨勢(すうせい)が続くが、馬の脅威に対し漢族王朝が守りの要としたものが二つある。一つは長城(ちょうじょう)である。長城は紀元前から建設され始めるが、時代が下るごとに改良が進み、15世紀の明の時代に最も完成度が高くなる。長城を突破されると次は長江(ちょうこう)が守りの要所になる。中国北部を失った王朝は首都を長江の南に置き、淮水(わいすい)や長江を防衛線にする。水戦に不慣れな遊牧民の弱点を突いたものである。

 農耕民と遊牧民の長い戦いは、17世紀に満洲(まんしゅう)族が農耕・遊牧両世界にまたがる王朝を建てたことで2千年の攻防に終止符が打たれる。兵器としての馬も、銃器の発展の結果、世界史的には20世紀初めにはその役割を終えることになる。

 一方、馬によってもたらされた両地域の長く深い関係は、対立だけでなく文化的な融合も生み、食文化や民族衣装、また遊牧民が基礎を作った首都北京など、今もさまざまな点に残されている。

【うちだ・まさのり】1972年静岡県御殿場市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(中国史)。主な著作に「魏晋南北朝の長安」(窪添慶文編『魏晋南北朝史のいま』)、「北燕馮氏の出自と『燕志』・『魏書』」(『古代文化』第57巻第8号)、「東晋十六国における皇帝と天王」(『史朋』41号)

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