新あきたよもやま:秋田美人誕生(2)~犬養毅が愛した名妓

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明治7年に創業した3階建ての料理屋「伊呂波屋」(『目で見る秋田100年』より)

語り継がれるロマンス


明治4年(1871)の廃藩置県により、秋田県が発足。同年、久保田城下町は秋田町となった。

職業を自由に選択し、誰でもお金さえあれば商売ができる時代の到来。資本主義のはじまりと共に花柳界もまた近代というシステムの中で再構築されていく。

明治5年、芸者、娼妓を自由独立営業者として認め、妓楼は彼女たちに部屋貸しするという名義で営業を認めた「芸娼妓貸座敷規則」が全国的に発布された。近代公娼制度の確立である。それは芸者、娼妓共に鑑札(免許)を届け出た者以外の営業を不許可にし、それぞれの職業分別を明文化するものだった。

●遊女貸座敷ハ免許場所限定許シ免許鑑札可相渡事(許可する場所を限定)
●免許鑑札一枚ニ付毎月税金上納ノ事(鑑札料の義務)
●遊女タルモノ毎月三度県下病院ニ於テ医官ノ検査可請事(娼妓の性病検査の義務)
●芸者ハ芸ヲ売物ニシテ淫ヲヒサクニアラズ(芸者の売春を禁止)

明治時代の妓楼、娼妓の営業免許(鑑札)



翌、明治7年の「貸座敷渡世規則」では秋田、土崎、能代、横手、大館、本荘の県下6都市で遊廓の設置が許可。その後、大曲、湯沢、角館、花輪が追加された。

秋田町では藩政時代以来の遊廓である下米町が貸座敷指定地となる。『秋田美人と民藝』によれば、同年、鑑札を交付された芸者10名、見習い15名が現れたという。

明治時代の下米町遊廓について『米町時代の花街』(※1)にはこんな記述がある。

「揚屋の中で一番の大店といわれた鶴屋には娼妓が3,40人も居たし、吉田屋、板垣の二軒にも2,30人居ないことはなし。その他、角屋、熊野屋、坂屋、栄屋、時田屋、松岡、福山、半五郎、梅田屋、石野屋(後に福屋)、遊楽亭、海老屋、門間、浅野屋、池田屋、亀屋、大福屋など20軒近く軒を並べていて、今のように大門とかを拵えて別の世界にするのと違い、東西南北の何方からでも大手を振って行けるというのだから大変な賑わいだった」

また、明治7年には寺町に「伊呂波屋」という3階作りの料理屋が開業。さらに2年後の明治9年には下米町からほど近い「曼荼羅小路」に志田屋が開業する。現在も竿灯大通りで営業する秋田市内では最も老舗の料理屋だ。

明治時代の志田屋(秋田県立博物館蔵)



明治時代、志田屋に通った人物に昭和初期に総理大臣となった犬養毅(木堂)がいる。木堂は明治16年(1883)4月から約7カ月間、秋田魁新報の前身である秋田日報の主筆を務めるため秋田に滞在していた。その間、花柳界で大いに遊び、下米町・鶴屋の名妓・お鉄と恋仲になった。日夜、お鉄のそばから離れなくなった木堂は、後に秋田魁新報社長となる安藤和風を部屋に呼び、自らの記事を口述筆記させるほど。そのロマンスは木堂の帰京と共に終わったが、その後も政治活動で秋田に来るたびにお鉄を呼び寄せたという。

平成5年(1993)、木堂からお鉄に宛てた手紙が発見され、お鉄が亡くなるまで、晩年まで二人が連絡を取り合っていたことが分かった。これを契機に秋田魁新報の編集委員だった佐々木義廣さんが調査し、お鉄のひととなりについて紙面で紹介している。(※2)

お鉄は本名・船木鉄。若美町(現・男鹿市)の生まれと言われ、土崎港の旅館の養女になった後、下米町で芸者となった。お鉄は芸者を廃業した後、置屋や下宿屋をしながら、二人の養女を育てた。病気がちだったお鉄を木堂は東京に来るように何度も誘ったが、かたくなに断ったという。大正14年(1925)6月、お鉄は死去。翌月、木堂は秋田を訪れ、彼女の墓前に線香をたむけた。その7年後、5・15事件で木堂は青年将校の凶弾に倒れる。

発見された手紙と共に若き日の木堂の写真も出てきた。裏には毛筆で書いた木堂のサインがあった。おそらくお鉄が大事にしていたものであろう。

雑誌『秋田』の主宰者であった鷲尾よし子は、お鉄に「はるかに思う人の幸福を祈って、静かに消えていく、薄命の美人」と想いを寄せた。(※3)お鉄は木堂とのロマンスと共に語り継がれる花柳界最初の秋田美人となった。

右端の女性がお鉄(秋田魁新報より)



(※1)秋田魁新報掲載(年月不詳切抜帖より)昭和17年9月18日謄写
(※2)「お鉄の手紙発見」秋田魁新報、平成5年5月12日
(※3)『明治から昭和まで』鷲尾よし子 昭和57年 秋田魁新報

芸道の師・石井文字蔦が築いたもの


下米町遊廓では「二枚鑑札」の芸者が多かった。「二枚鑑札」とは芸者が娼妓のように身体を売ることである。「芸娼妓貸座敷規則」で禁止されていたものの、芸者と娼妓が同じ妓楼内で「同居する」遊廓では横行していた。

『秋田美人と民藝』には明治8年に「二枚鑑札」が禁止になったという記述がある。当時、あいまいな遊女であった芸者たちを訓練し、芸道一本で生きるように仕込んだのが常磐津の師匠・石井文字蔦だった。

石井文字蔦(『秋田花模様』より)



明治39年(1906)に刊行された『秋田花模様』(安藤盛惠編・出版協会)には石井文字蔦の写真と経歴が掲載されている。これによれば石井は天保6年(1835)に士族の娘として江戸、日暮里に生まれ、14歳から芸道に入り、常磐津を習得。戊辰戦争の頃から秋田に居を定め、明治41年に亡くなるまで多くの芸者に常磐津を教えた。

石井の死から一年後の明治42年、寺町の久城寺境内に建立された「石井蔦女碑」の裏面には、その教えを受けたと思われる芸者置屋の名前が数多く刻まれている。芸道の師として、花柳界の人々に敬われた石井の生涯を物語る石碑だ。

鉄道が開通する前から東京から来る客を積極的に呼び入れ、言葉から着物、髪型、唄にいたるまで、指導を受けることもあった。こうした鍛錬が後の川反花柳界における芸の礎となったのだ。

秋田市久城寺にある「石井蔦女碑」


べっぴんは困窮士族の娘


芸者や娼妓の多くは年季奉公という名目で前借金と引き換えに妓楼に身売りされた貧しい家の娘たちであった。衣装や日用品など借金のうちに含まれていた上、営業税、鑑札料、病院費用なども本人持ち。馴染みの客に身請け(借金を肩代わりにし、稼業をやめさせること)された場合は年季(契約期間)が明ける前に抜け出せることができたが、病気にかかるなどして若くして苦界に身を沈めたまま亡くなる女性たちも少なくなかった。

明治になって私有財産権が広く認められたことにより、土地の売買が自由におこなわれるようになった。農村では地主の土地の買い占めが進み、明治10年代には寄生地主が各地に生まれることになる。貧富の差が広がる農村地帯は明治から昭和にかけて芸者、娼妓の一大供給地となる。

都市部では明治9年(1876)にそれまで生活を保障されていた士族に対して、すべての家禄を廃止する「秩禄処分」が行われた。いわば士族のリストラである。収入を失った士族の多くは困窮を極め、娘を妓楼に身売りする者も現れた。明治中期に書かれた『羽陰温故誌』によれば、当時の料理屋で働いている「べっぴん」の酌婦は士族の娘が多かったという。

また『米町時代の花街』によると、士族出身者が開業した「浅野屋」という妓楼があった。楼内では遊客が元士族の主人に対して「旦那、こんにちは」と挨拶するなど、封建時代の空気が残る、この時代らしい光景が見られたという。

経済が活発になるにつれて富める者と貧しい者の差は益々広がっていく。遊廓にとって需要と供給という商売に不可欠な要素が出揃った。遊廓が栄えるにつれ、妓楼や芸者、娼妓が納める営業税や鑑札料は地方行政にとって貴重な財源となる。近代都市の中で遊廓の紅灯と秋田美人の血肉は確実にその存在を大きくしていくのである。

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