旅と移動・世界×文化(16)コロナ禍で立ち上がるジャンヌ・ダルク(佐藤猛)
中世ヨーロッパにおいて英仏百年戦争が行われていた頃である。英軍がフランス北部を占領していた1429年、ジャンヌ・ダルク(1412?~31年)は旅に出た。
その前年、彼女は故郷のドンレミ村近くの仏軍駐屯地を訪れた。私以外にフランスを救う者はいない、自分は神から遣(つか)わされたと駐屯隊長を説得した。
旅に出たジャンヌはシノンで仏王太子シャルルに謁見(えっけん)した後、英軍包囲下のオルレアンで勝利して町を解放し、シャルルの国王戴冠式に出席した。だがパリ攻略に失敗し、捕らえられた。1431年、英占領下のルーアンで教会裁判により異端宣告を受け、処刑された。
その裁判でジャンヌは旅立ちの理由をこう述べている。オルレアンを解放せよとの神の声を聞いたと。この供述は、神の言葉を解釈すべき教会にとって危険で、傲慢(ごうまん)だと判断され、異端宣告の根拠となった。
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ジャンヌ処刑から22年後、百年戦争は仏勝利に終わった。仏陣営の教会指導者は、生前の彼女に関する証言をもとに異端宣告を破棄した。彼女はキリスト教徒として復権した。
この時に集められた証言によれば、ジャンヌは出立(しゅったつ)時、使命とともに後ろめたさを感じていたようだ。幼なじみによると、彼女は仏軍駐屯地まで送ってくれた叔父に、父親には叔母の出産を手伝っていることにして欲しいと頼んだという。ジャンヌは嘘(うそ)を後悔したのだろうか。出立後10日足らずで父母に手紙を送り、許しを乞うたと処刑裁判において供述している。
ジャンヌは道中、勇敢にも一人で多くの兵士を率いたと考えられがちである。だが、実際には常に数人の騎士に守られて移動した。彼らの多くが後に復権裁判の証言台に立ち、彼女が毎日お祈りをし、小食であり、きれいな服装を好んだと述べている。オルレアン解放戦の総司令官は、ジャンヌが時折冗談を交えて戦いの話を創作し、周囲を励ましたと証言している。
騎馬で約5千キロに及んだ旅の様子は、ジャンヌの使命感と人柄に彩られ、現在まで語り継がれている。仏内外の政治家・作家・教会指導者らが実に多様な役どころを彼女に与えてきた。
オルレアン市は1429年以来、ほぼ毎年祝祭を催し、ジャンヌの功績を称(たた)えている。
1789年フランス革命期の一議員は、ジャンヌが生きていれば、革命の発端となったバスティーユの襲撃に参加しただろうと述べた。ナポレオンは反革命諸国と戦っていた頃、彼女を祖国独立の象徴として掲げた。ただし、称賛ばかりではない。英国に目を向けると、シェイクスピアの『ヘンリー6世』(1592年頃の作)に、彼女は高慢な魔術使いとして登場する。
ローマ教皇庁は1920年、ジャンヌを聖人の列に加えており、昨年はその百周年の節目にあたった。日本では明治以来、彼女は児童向けの偉人伝に欠かせない人物となっている。
ジャンヌは死後、人々の記憶の中で「旅」を再開し、各時代の転換点で人々に担がれてさえいるかのようである。だとすれば、その「旅」は今どこに向かっているのだろうか。
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オルレアンでは今年の春も感染対策をしてジャンヌ・ダルク祭が開催された。その様子は動画投稿サイト「YouTube」で配信されている。同地のジャック・ブラカール司教は説教中、百年戦争をコロナ禍と重ねて回顧した後、ジャンヌは統合・力・勇気・公益への配慮の模範であり続けていると述べた。
力や勇気とともに、なぜ統合と公益という言葉が選ばれたのか。司教はコロナ禍の中で起きている差別や分断の解消を祈りつつ、社会全体が統合を取り戻すという希望の旗振り役をジャンヌに託したと考えるのは、深読みだろうか。
旅と移動への自粛要請はようやく解除されつつある。新たな状況の中で、ジャンヌがどのような希望を携えて「旅」を続けるのかを見守りたい。
〈完〉