戦禍の記憶:学徒勤労動員 「帰らない」飛行機造る

有料会員向け記事
お気に入りに登録

 太平洋戦争開戦から8日で80年を迎えた。戦時中、学生を軍用機の製造や農作業に従事させた学徒勤労動員。群馬県の工場で戦闘機の製造に携わり、その後、東京大空襲や土崎空襲も経験した能代市の女性(93)に、当時の様子を聞いた。

 ◇  ◇

 秋田師範学校(現秋田大学教育文化学部)女子部の予科2年生の時、学徒勤労動員で群馬県の中島飛行機小泉工場に行きました。昭和19(1944)年12月か、翌1月のことだったと思います。配属先に、「伍長さん」と呼んでいた30代くらいの監督役の男性がいて、食べ物をくれたり、とてもかわいがってもらいました。

 工場で造っていたのは「零戦」です。私が担当したのは前部胴体。機体に薄いジュラルミンを貼る仕事でしたが、本当に薄っぺらいものでしたよ。操縦席も狭く、当時身長150センチくらいだった私が座っても、ぴしっとして身動きできないほどでした。

※この記事は「有料会員向け記事」です。有料会員(新聞併読、電子版単独、ウェブコースM、ウェブコースL)への登録が必要です。
(全文 1978 文字 / 残り 1598 文字)

この連載企画の記事一覧

同じジャンルのニュース