集う人々・世界×文化(6)コロナ統制下の祭りの可能性(小倉拓也)
狂気は、正気からの逸脱であるがゆえに一般に忌むべきものとされる。しかし、人類の歴史において、狂気は社会の存立にとって不可欠な役割を演じていた。例えば古代ギリシアでは、狂気は神の働きかけによるもの、神的なものと考えられ、預言や祭りなどの社会的に重要な営みにおいて絶えず必要とされたのである。
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古代ギリシアにおいて預言を行ったのは、ピュティアと呼ばれる巫女(みこ)である。ピュティアは、月桂樹を噛(か)むなどして脱魂状態、トランス(人事不省)状態に入り、神からこの世ならざる知を受け取り、語ったとされる。このような狂気による預言は、古代社会において文字どおり明日を占うもの、社会を左右するものだった。
これを野蛮な習慣と切って捨てることはできない。人間の知は有限であり、未来を正確に知ることができない以上、その不安を埋めて何かを決断するためには、未来を大胆に約束するものが必要だからである。不確かな世界に何か確かなことを当て込むことなしには、それに立ち向かうことはできないのである。
約束の本質は、不安で身動きが取れない状況に、決断する勇気をもたらすことにある。それが果たされるかどうかは重要ではない。エビデンス(根拠)のある、果たされることが確実な約束しか許されないのであれば、できる約束などほとんど存在しない。約束するには、そんな正気の沙汰を踏み越えなければならないのである。
祭りもまた、狂気による営みだった。しかし、預言の神が知と安心を司(つかさど)るアポロンであるのに対して、祭りの神は無知と解放を司るディオニュソスである。祭りは、過去に囚(とら)われ未来に怯(おび)える人間たちを現在に没頭させ、恍惚(こうこつ)状態、エクスタシー状態のなか、何もかも、自分自身さえも忘却させることで、人間たちを自由にした。
アポロン的な預言の狂気が、選ばれし預言者の卓越した素質の賜物(たまもの)であり、ときに権力に資するものだったのに対して、ディオニュソス的な祭りの狂気は集団的なものであり、身分の違いをかき消しながら、人々に伝染し、人々を結集し、ひとつにした。ディオニュソスは異邦の、外来の、開かれた神であり、支配者ではなく民衆たちの神である。

祭りの狂気は、集団的な破壊と変化の力である。それだけが人間たちを、そして社会を、鬱屈(うっくつ)や不安によって破綻しないよう新生させ続けるのである。この狂気は、預言の狂気とともに、有限な知しか持たない人間がその苦しみに耐え、緊張に満ちた社会をそれでも存立させるために、不可欠な役割を演じたのである。
しかし、例えば哲学者のニーチェも鋭敏に看取していたように、アポロン的な狂気は、エビデンスを積み上げる狭隘(きょうあい)な未来予測に場所を譲り、不確かな未来を大胆に約束する力を失うようになった。そして、それとも相まって、ディオニュソス的な狂気は、不満を適度にうやむやにする、コントロールされたガス抜きの装置に取って代わられ、集団的な破壊と変化の力は影をひそめるようになった。
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このこと自体は人類の数千年の歴史の問題であるが、とりわけ私たちの社会の、人々が集うことを禁じられ、日々上下する数値を目で追ってばかりの2年半は、まさに「狭隘な未来予測とコントロールされたガス抜き」を、「新しい日常」として、つまり「正気の沙汰」として前景化し、定着させたように思われる。
2年半ぶりの「許可された再開」は、実は「統制された動員」と別のものではない。そうやって集う人々に歓喜する私たちは、それが白でも黒でもない灰色の日常への適応でもあるということを忘れてはいけない。死に体となって久しいディオニュソスは、しかし断固として要求するだろう。人々の集いを、許可や統制から奪還せよと。楽しみ、そして破壊せよと。