集う人々・世界×文化(9)ソビエト・ミュージカル映画の「祝祭」空間(長谷川章)
20世紀、テクノロジーの発展により、人々が集う祝祭空間は現実だけではなく、映画などバーチャルな形でも世界中に拡大した。ここでは、人気ジャンルだったミュージカル映画が、映画産業の中心地米国と対極にあるソ連で、どのように展開したか振り返りたい。
トーキー技術発明後の1930年代、米国産ミュージカルは世界中で熱狂的に受け入れられる。だが、当時の有名作でも、豪華な映像と音楽で観客を圧倒しながら、差別などの社会問題は無視していることが多々あった。観客がミュージカル映画の祝祭的興奮に酔いしれる時、実は何かが隠蔽(いんぺい)されているのかもしれないのだ。
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ソ連でのミュージカル映画の誕生は、米国以上に隠蔽を図るためのものだった。1932年、駆け出しの映画監督アレクサンドロフは作家ゴーリキーの別荘に突然招かれる。彼は「戦艦ポチョムキン」(1925年)で有名な前衛映画監督エイゼンシュテインの弟子であり、師と共に欧州・米国・メキシコで活動し帰国した直後だった。別荘には政治指導者スターリンも現れ、アレクサンドロフに、大衆は楽天的な芸術が好きなのに芸術家はそう望まないと訴える。
これを受け、米国で映画製作の現場を学んだアレクサンドロフは、「陽気な連中」(34年)を皮切りに「サーカス」(36年)「ヴォルガ・ヴォルガ」(38年)のような、大衆受けのする娯楽的ミュージカルを撮り始める。彼に遅れプィリエフもウクライナが舞台の農村ミュージカル「豊かな花嫁」(37年)などを製作する。
こうした作品に人々は熱中したが、政府側は、映画内の明るく賑々(にぎにぎ)しい世界はソ連の楽天的な現実の反映だと国民に信じ込ませようとしていた。当時のミュージカルは「楽天的現実」の名の下、農業集団化の強制によって引き起こされたウクライナやロシア南部の大飢饉(ききん)、スターリン独裁体制確立のため実行された大粛清という、同時代に起きた悲惨な事態を隠蔽するのに貢献したのである。
スターリン死後のソ連後期には映画はもっと多様になる。スターリン期ミュージカル映画は同時代のソ連を舞台とするのが主だった。だが、ソ連後期は、歴史的過去や非現実なファンタジーの世界が多くなる。特にファンタジーは、個人が秘かにソ連の現実から逃避するための隠れ家のような役割も果たした。その中で斬新な作品も登場する。
ウクライナ出身のブィコフ監督「アイボリート66」(66年)はソ連の作家チュコフスキーが英国のロフティング「ドリトル先生」に想を得た作品の映画化である。驚くのは、映画全体がミュージカル映画とは何かを作品自体の中で問いかける作りになっている点だ。
通常の映画では音楽は画面の伴奏にとどまる。一方、ミュージカルでは音楽が優位で画面はその視覚化に従い、画面と音楽の主従は逆転する。「アイボリート66」冒頭は暗闇の音楽から始まり、その音楽を直接視覚化したような抽象図形が画面に広がる。さらに「作者」が登場し、ミュージカルは虚構だと暴露する。その後、作品内の舞台ではスタッフが主人公の乗る船を建造し、船は舞台に設置したスクリーン中の「実写」の海へ出航し、本編が始まる。
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芸術が現実の再現でなく約束事に基づく虚構だとの考えは、スターリンが弾圧したエイゼンシュテインらの1920年代前衛芸術運動に由来する。こうした虚構性と自由に戯れるような遊戯精神がスターリン後に復活したのである。
実は「アイボリート66」は中盤が冗長で必ずしも成功とは言えない。だが、ブィコフは以降も注目作品を監督する。俳優活動も目覚ましく、ペレストロイカまで公開禁止となった問題作、ゲルマン「道中の点検」(71年)のパルチザン隊長役では人生の悲哀を伝える名演技を見せた。
ソ連は抑圧的国家だった。だが、その時代に映画人は少しでも良心的な作品を作ろうと懸命の努力を重ねた。いまウクライナを侵略するロシアの政権は国内に向けても言論弾圧を強化し、ロシアの芸術は闇に沈んだかのようだ。しかし、ソ連の映画史を改めて振り返るならば、現在の映画人・芸術家にも、過去の歴史に学びつつ良心的であろうと苦悩している人たちは必ずいると思えてくるのである。