集う人々・世界×文化(11)天安門広場という政治装置(羽田朝子)

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 天安門広場は、中華人民共和国の首都北京の中心部に位置している。広場の北にある天安門には毛沢東の肖像が掲げられ、国家的儀礼の際には、人民解放軍や民衆による規律されたパレードが盛大に開催される。まさに中国共産党の一党独裁体制を象徴する空間といえよう。

 広場の起源は明清時代にさかのぼる。天安門(明代は承天門)は皇帝の居城である紫禁城(現・故宮博物院)の南門に当たる。この南門と、その南に広がる官庁群によって細長い空間がつくりだされていた。これが現在の天安門広場の原型である。王朝時代もここで各種の儀礼が執り行われたが、壁に囲われていたため民衆が立ち入れない禁地であった。1911年の辛亥革命で帝政が崩壊すると、民衆が自由に集まれる空間となり、北京の知識人や学生によるデモ活動がたびたび行われた。

 この無名の空間は、1949年に中華人民共和国が成立すると、国家的な場として大きく変貌を遂げる。政府は天安門の南に残っていた門や建物を撤去して空間を広げ、44万平方メートルの広大な長方形に整備した。約40万人を収容でき、集会を目的とする広場としては世界最大である。天安門前を東西に走る長安街と合わせて、最大百万人の集会が可能だという。

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 このような広大な広場は、各国の首都にも存在している。国家の正統性は国民の支持と、国際社会の承認によってもたらされる。そのため国内外の人々が集い、国家への支持が可視化される空間が必要なのである。

 天安門広場では、中国共産党政権の正統性が、さまざまなシンボルを複合的に用いることによって演出されている。広場が整備された当時、中国にとってソ連があらゆる面でモデルとなっていた。広場と建物の配置は、明らかにモスクワの赤の広場が参照されている。広場内外に建設された巨大なモニュメント群にも、中国の伝統的な建築様式のほか、ソ連様式が取り入れられている。

 さらにアメリカのワシントンDCのナショナル・モールも強く意識されている。人民英雄紀念碑にはワシントン記念塔、毛主席紀念堂にはリンカーン記念堂からの影響も見られるのである。

 その一方、かつての王都の空間配置も継承している。都が置かれた明代から、北京では紫禁城を中心として南北に貫く中軸線が置かれた。この軸線に沿って皇帝による王権儀礼が行われ、中軸線は皇帝そのものをも象徴していた。

 天安門広場ではこの中軸線上に、3つの国家的モニュメントが1列に並ぶよう配置されている。国旗とその掲揚台、革命運動に殉死した烈士を記念する人民英雄紀念碑、そして毛沢東の遺体を永久保存する毛主席紀念堂である。さらに中軸線を挟み、中国国家博物館と人民大会堂が東西に対称をなして配置されている。

 明清時代にあっては天安門の楼上から皇帝の詔書が発布されたが、中国共産党政権下では政府指導者がその楼上に立って演説を行う。広場の王都を継承した空間配置とも相まって、その姿を皇帝と重ねるのはたやすい。

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 天安門広場は、権力の正統性を物語る空間であるため、それに抵抗する運動の拠点ともなった。1989年の天安門事件では、民主化を叫ぶ学生たちによって広場が埋め尽くされた。彼らはニューヨークの自由の女神を模した「民主の女神」像を運びこみ、天安門の毛沢東の肖像と対峙(たいじ)させた。まさしく共産党政権の正統性を揺るがす行為である。女神像は政府によって破壊されるものの、世界各地の支持者によってレプリカが作られ、息を吹き返すこととなる。

 中国国内では現在でも天安門事件に関する報道はタブーであり、厳しい情報統制がなされている。香港では事件以来、毎年6月4日の記念日には天安門広場を模した仮設の広場が設置され、犠牲者追悼集会が開催されていたが、2020年の民主化デモ鎮圧後は開催が不可能になった。北京の広場は現在、多数の警備兵が警戒し、たびたび入場規制が行われている。

 天安門広場で過剰なまでに国家の正統性を演出し、それを守ろうと躍起になるのはなぜなのか。おそらくは、それがいかに揺らぎやすいかを、共産党自身が知っているからなのであろう。

【はねだ・あさこ】1978年福島市生まれ。秋田大学教育文化学部准教授(中国近現代文学)。主な著作に「満洲国留学生の日本見学旅行記―在日留学生のみた『帝国日本』」(『漂泊の叙事―一九四〇年代東アジアにおける分裂と接触』共著)、『奈良女子高等師範学校とアジアの留学生』(共著)。

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