東京湯島の名店「シンスケ」の酒が「両関」ひとすじな理由 寄稿:高山なおみ

写真:大森克己

新幹線「こまち」に乗って上野駅で降りる。
午後4時を過ぎているなら「シンスケ」へ。

 東京大学と東京芸術大学の間にある不忍池のほど近く、「正一合の店 シンスケ」をご存じですか。創業1924(大正13)年、ミシュランで一つ星を獲得したこともある名店は、日本酒1銘柄、湯沢市の「両関」しか置いていない。

 東京から、灘の日本酒が名高い神戸に移住して7年、料理家・文筆家の高山なおみさんと「シンスケ」で落ち合いました。

シンスケのこと

高山なおみ


 神戸に戻った翌日からセミが鳴きはじめ、盛夏になった。空も海も青く、なかなか日が暮れない。

 台所で夕飯を支度しながら、私はいそいそとテレビをつける。カンカンと拍子木の涼しい音。パンッパンッと、まわしをはたく威勢のいい音。大相撲なんかこれまで真面目に見たことがなかったのに、お江戸の香りのする酒場「シンスケ」でのひとときが忘れられないからだ。

 三代目亭主・矢部敏夫さんの、紺の半被(はっぴ)にねじりはちまき。もう何十年も腰に巻き続けてきただろう「両関」の前掛けのひもは、背後から見ると夏祭りの赤い帯のようだった。

 ◇◇◇

 地下鉄の湯島の天神さまがある口から出て、角を曲がるとすぐに濃いグレーのモダンな建物が見えてくる。「シンスケ」と筆で書かれた豆腐のような看板。石段を三段上がったら、縄のれんをくぐって引き戸を開ける。

 入るとすぐに、木の匂い。

 長い長いカウンターにひとり腰掛けると、三代目がゆうらり動いて、割り箸とおしぼりを揃え、私の前にすべらせる。そして、コースター。薄い吹きガラスの真っすぐなグラスと、おちょこを、とんと隣に並べてくださる。

 「シンスケ」のお酒は、秋田の銘酒「両関」一筋。やや辛口の本醸造に、やや甘口の純米酒。香りとうまみが濃く、舌に甘みが残る本醸造は、東京の人たちの味覚に合うよう「少し切り上げてください」とお願いし、「シンスケ」だけの味を造ってもらった。


 「酒場には〝数多くの銘柄が選べる自由〟を謳うお店もありますが、ウチは〝1銘柄だからこその自由〟について追求しました」

 私は純米の「ちょい冷や」を頼んだ。四代目の直治さんが「冷えムラが、いいんです」と言い添えていたあれだ。

 「暑い外(おもて)からいらっしゃるお客さまに、冷酒ほどにはお腹が冷えない、ひんやりとしたお酒をと思いまして。のど元でグビッと冷たいけれど、そのあとからふわっと常温になっていく。常温と冷やの間のお酒です」

 木ぶたを開けると、深川の桶屋に特注したサワラの桶には角氷が張られ、白いとっくりが整列していた。口のすぼまったなだらかなカーブ。このとっくりも、割り箸袋やコースターと同じく、昨年亡くなったデザイナー仲條正義さんが手がけた。


 最初のつまみは、したし豆。芥子(からし)を溶いた醤油をちょっと落としていただく。

 山形産の青大豆は、歯ごたえを残しながらもねっとり。つるんこりこり近江の赤コンニャク。寒天寄せの青のりは、口の中でばらばらにほどける。そこで、ちょい冷やをひと口、したし豆をまたひと口。


 二席空けたお隣に、開衿シャツの熟年サラリーマンが腰を下ろした。

「こんばんは、小さいビールをひとつ」

 ノコッター、ノコッター!

「おお、腕一本で! きのうも強かったけど、すごいですね」

 後ろの席からも「ビールください」「こちらも1本」との声。

 カウンターの端では四代目が、瓶ビールの栓を抜いている。スポンッ! スポンッ! スポンッ! 世の憂さをいっぺんに晴らしてくれる景気のいい音。

 冷えたビールが運ばれて、ひとまずのどを潤したらしいお隣さんが、「車海老と新生姜のかき揚げをください。あとあれ、冷やしトマトを」

 私の前には、切り干し大根のごま酢和えが。花弁の形の薄手の器に、小さな山。てっぺんにはちょんと、茗荷(みょうが)の甘酢のピンクがのっている。下の方から少しずつ崩しながらいただく。ねっとりとしたクリーム状のごまと、擂(す)ったごま両方の舌触り。果物のような甘みと酸味がじゅわっとくる。なのに、切り干しはあくまでもハリハリ、カリカリ。おいしいなあ。青いのは三つ葉とセリなのだそう。あ、ウドも入っている。

 このごま酢和え、どうしていつまでたってもおいしいままなんだろう。家で作ろうと思っても、ぜったいに真似できない。

 そして気づいた。この盛りつけは、きっと、乳房の形だ。


 お隣にシンスケ風冷やしトマトが運ばれてきた。涼しげなガラス器、湯むきされた丸ごとのトマトがとろりとした赤い汁に浸っている。メニューには、「つぶすと和風ガスパチョに」とある。

 「待つという言葉にも、いろいろありますね。待ち遠しい、待ち焦がれる、待ちわびる。日本語は、豊かだなあと思います」

 見るもの聞くもの物珍しく、友人を待ちながらきょろきょろしていた不粋な私に、四代目がにこやかに声をかけてくださった。

 「酒場は、職場から家に帰る間に社会での役割の服を脱ぎ、心をさっぱりさせる場所。格好つけなくていいし、素の自分に戻れる。パブリックかつ平等なところも銭湯に似ています」

 これまで数えきれないほどの人たちが撫でてきた、一枚板のヒノキのカウンター。仕事、生活、生き方を抱えたおのおのが同じ場で心地よく酔い、料理に舌鼓を打っている。なんだか私は、ここにいる皆と同じ船に乗り合わせているような気持ちになってきた。亭主の濃(こま)やかな配慮はお客に気づかれぬよう沈められ、江戸から続く「シンスケ」だけがゆかしく在る。

 私は熱燗を頼むことにした。

 掌にすっと落ち着く、仲條さんの忘れ形見のとっくり。ひと口含んだら、体の内に流れるものより、少しだけあたたかなありがたい液体がやってきて、広がった。

「はー」

 声が出た。


「物資が手に入らない戦後の時代、両関さんだけが戦前同様にお酒を送ってくださったんです。そのご恩を子孫代々忘れないように、曽祖父は、酒は両関に限る、と決めました」
(4代目亭主の矢部直治さん。右は、3代目の敏夫さん)


「自由とは規制の中でこそ際立つ。
両関さん一筋だからこそ実現できた自由が3つあります」
①4種の「両関」は、シンスケ向けの特別仕様
②調理にも「両関」を使うがゆえの酒と肴の完璧なマリアージュ
③氷冷器(木桶)を特注することで冷酒の温度もお好みに


江戸後期に升酒屋(酒屋)として創業。1923年の関東大震災で倒壊。翌24年、酒場「シンスケ」として再出発し、当代亭主は4代目(家業11代目)。商売の復興を助けた知人、鈴木新助さんの名を屋号に冠した。言霊信仰により、名を外看板に記し雨ざらしにするのは失礼にあたると音だけのカタカナ表記に。字は仲條正義さんの友人の書道家のもの。仲條さんは「シ」「ン」「ス」「ケ」と1字ずつ分解しコラージュして再構築した。



●「正一合の店 シンスケ」
東京都文京区湯島3の31の5
YUSHIMA3315ビル
☎︎03・3832・0469
営業時間:午後4~8時(L.O.)
定休日:日曜・祝日
shinsuketokyo.com


●たかやま・なおみ
1958年静岡県生まれ。料理家、文筆家。におい、味わい、手ざわり、色、音、日々五感を開いて食材との対話を重ね、生み出されるシンプルで力強い料理は、作ること、食べることの楽しさを素直に思い出させてくれる。著書に『料理=高山なおみ』『自炊。何にしようか』『帰ってきた日々ごはん1~ 11』など多数。中野真典の絵による『どもるどだっく』『たべたあい』『それからそれから』ほか、絵本制作も。NHK「きょうの料理」などに出演。

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