集う人々・世界×文化(13)インドネシア 戦時下の祭典(ホートン・W・ブラッドリー)
インドネシアには、古くからパサール・マラム(夜市)という年中行事がある。夜市とは言うものの夜だけ開かれるわけではなく、市場(いちば)でもない。啓蒙(けいもう)活動のような展示から娯楽のようなエンターテインメント、喫茶や食堂も設(しつら)えた大掛かりな祭典である。
オランダ植民地時代のジャカルタ(当時バタビア)では、女王誕生日前後の約2週間、自治体や中国系団体が中心になり、慈善事業のための募金活動を公式目的として開催していた。太平洋戦争前の1941年10月にジャワ島第2の都市スラバヤで開催されたパサール・マラムでは、収益の50%を戦争基金に、25%を救急車用基金に、25%を中国の慈善団体に寄付した。
1942年3月9日、オランダ軍が日本軍に降伏し、日本軍政が敷かれたインドネシアは、目まぐるしく社会が変化した。そのような中、42年9月3日にジャカルタで、小規模なパサール・マラムが3年ぶりに開催された。「民心把握」を掲げていた日本軍が、インドネシアの人々に近づこうとした祭典であった。
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1943年半ば、日本は少しずつではあるが、インドネシアの「政権参加」を約束し、戦時としては比較的平穏な時期だった。パサール・マラムの計画も各地で動きだし、ジャカルタ特別市では6月25日から7月15日までの日程で、午前10時から午後11時まで毎日開催されることになった。
当時の日系『ジャワ新聞』は、「パッサル・マラムあす開く」「“戦う爪哇(ジャワ)”の縮図―七万坪に展(ひら)く絢爛(けんらん)絵巻」と、写真付きで紹介している(43年6月24日)。大林組の指導でパビリオンが建設され、新爪哇館、日本産業館、プートラ(43年4月に結成された民族総力結集組織)館、衛生館、写真館等の啓蒙的なパビリオンのほか、運動競技場、音楽館、演劇場、映画館、食堂、売店も併設された。
このうち日本産業館では、繊維、電気、製油、ゴム、ビール等20社の実物を陳列し、写真館では、ジャワ島の報道担当をしていた朝日新聞社が日本紹介の写真108枚を展示し、入場者にとっては日本を知る機会にもなった。プートラ館では、戦争や祖国防衛義勇軍への支援活動も展開していた。
また、ビンタンスラバヤ劇団、ビンタンジャカルタ劇団、ミスチチ劇団といった、ジャワ生え抜きのエンターテイナーの公演や、インドネシアの影絵(ワヤン)、インドネシア舞踊、民族音楽ガムラン、西ジャワ州の武術「ベンジャン」などの公演もあり、啓蒙活動と娯楽、日本社会とインドネシア文化理解が相まった祭典であった。
入場料は、インドネシア人の大人10銭、子供5銭、それ以外の民族は倍の値段であったが、7月4日の正午から午後2時までは学生、兵士、貧困層は入場無料にするなど、多くの人が見聞きできる工夫もし、日本軍政の宣伝に努めた。20日間で約40万人が来場し、その収益は慈善団体へ寄付され、パサール・マラムは成功裏に終わった。数日後に東条英機首相がジャカルタを訪問している。
同年に各地で開催されたパサール・マラムは、インドネシアが日常を取り戻したかのように錯覚させる。しかし、パンフレットをめくると、カラー印刷の広告や文化公演日程とともに、戦争スローガンが目に飛び込んでくる。戦争は、そこにあったのだ。
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戦争末期、日本の戦局が正念場を迎えていたことは、インドネシア全土でも明らかであった。新聞の紙面は削られ、記事は戦況報道ばかりになった。都市部では食糧難で飢餓に苦しむ人々もいた。そして、大きなパサール・マラムは終戦まで再び姿を見せることはなかった。戦争と変化の時代に、「普通の生活」を送ることができた短い享受の期間に開催された祭典は、当時のインドネシア人にとって重要なものであった。
しかし、公式には、戦争に勝つという目的のために人々を集めたものでもあったことも忘れてはならない。庶民の歴史の一ページでもある。