英仏百年戦争と長い休戦(秋田大・佐藤猛准教授) 和平交渉の歩みは止めず
古今東西を問わず、戦争は人々の大規模な離合集散を引き起こし、感染症流行の背景ともなってきた。中世ヨーロッパにおいてペストが大流行したのも、ジャンヌ・ダルクで有名な英仏百年戦争(1337~1453年)が始まったころであった。
百年戦争は英王家が北仏出身であることから起きた。12世紀以来、ノルマンディー地方やボルドー周辺には英王の大陸領が広がっていた。英王はこれらの拡大を目指して開戦し、交渉を有利に進めるために、われこそが仏王であると主張した。以後の戦いを人々の集まりに注目して考えてみたい。
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約百年のあいだ、英仏の正規軍が戦場で相まみえた合戦は実は数えるほどしかない。戦闘はあらゆる点でリスクが高く、むしろ双方が戦闘の自制を誓った休戦の期間の方が長い。
休戦の交渉では、双方の使節が両陣営の中間に位置する教会等に集まった。そこに王が居合わせることはなかったが、代わりにカトリック世界をつかさどる教皇の特使が同席した。彼らは英仏のあいだに入って、和平が無理ならば休戦をと呼び掛けた。
休戦中には和平交渉も試みられ、約百年間で2度の和平が成立している。つまり、戦争は2度終結しており、平和条約締結の場には王たちも赴いた。だが、条約の内容が新たな火種となり、その度に戦争が再開した。1420年のトロワ平和条約では仏王位継承権が英王家に渡り、ジャンヌ・ダルク登場の背景となった。
「世界平和」や「恒久平和」といった考え方がなかった当時、休戦期間は1~2年を中心に数カ月から数年間に限られていた。
その中で1396年、パリに集った英仏2人の王の叔父たちは28年間の休戦を取り決めた。これほど長い休戦を誓うことができたなら、戦争終結も可能だったのではないだろうかと考えてしまう。
この頃の英仏はともに国内で政争を抱えていた。英の政争は後にプランタジネット朝からランカスター朝への王朝交代をもたらした。仏ではヴァロワ王家が分裂し、王国政治の主導権を争った。さらに、東方のビザンツ帝国にはイスラーム教徒が迫っていた。
英仏ともに、表向きは戦争よりも異教徒撃退を優先するという点で一致していた。だが、長年の争点であるボルドー周辺の英大陸領の再編については、地元住民の反対もあり英仏の交渉は紛糾した。結局、和平を断念し、国内外の状況から長期休戦に踏み切った。
だが、休戦により稼ぎ口を失う兵士にとって、何よりも平和を願う人々にとって、後ろ向きの長期休戦は納得のいくものだったのか。誓われたのは「休戦」だったが、彼らの気持ちを抑えるために、「和平」が成立したかのような雰囲気がつくり出された。
特にドーヴァー海峡沿いの港町カレーの近郊において、英仏の王とそれぞれの首脳部らが一堂に会した。周囲に集まる民衆に対して武器携行と暴言が禁止される中、王たちは抱擁してキスを交わし、「平和の聖母教会」を建てることを約束した。翌日には、約4時間に及ぶ国王会談が行われた。
そもそも、英仏の王は百年戦争中にどれほど対面しているのか。2度の和平成立時を除けば、最初の合戦となった1346年のクレシーの戦いで、前方両翼を固める兵士越しに対峙(たいじ)したのと、1396年の集いの時だけであった。
1399年、英で王が廃位され、王朝が交代した。その約15年後、新王朝治下の英では休戦の期限切れを待たずに国王親征軍が召集され、大陸侵略へと向かった。
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戦禍の中、人々は課税の承認や砦(とりで)の補強工事でも集まり、休戦中は英仏間の商取引も再開した。その中で戦争の両輪である戦闘と和平交渉に注目すると、戦闘は交渉打開のための手段としての側面が強かった。休戦の誓いと和平交渉が繰り返された百年は平和共存を模索した百年ともいえる。
2022年初頭、コロナ禍の中で戦争が勃発した。その行方に世界中の注目が集まるが、歴史学は未来を論じる学問ではない。本稿は過去の戦争の経過や戦禍を生きた人々の姿を示すことで、現在起きている戦争を考えるきっかけを届けているにすぎない。