秋田藩江戸上屋敷という拠点(秋田大・清水翔太郎講師) 生家を支えた藩主の娘たち
秋田藩主の江戸における居所、上屋敷(かみやしき)は17世紀末から江戸時代を通して下谷七軒町(したやしちけんちょう)=現東京都台東区=にあった。下谷三味線堀(しゃみせんぼり)邸としても知られている。藩主は久保田城本丸(現秋田市千秋公園)で1年間藩政に向き合うと、その翌年は参勤交代のため江戸上屋敷で生活し、徳川将軍に奉公した。藩主の本妻は1630年代以降、江戸に居住することが幕府により慣例化されたため、上屋敷の奥御殿で生活した。その他、上屋敷には藩主の子どもや側妾(そばめ)=本妻以外の身近な女性=も生活していた。
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秋田藩佐竹家の史料を読んでいると「上々様(うえうえさま)」という呼称がよく目に入る。「上々様」とは藩主の家族として処遇された人びとで、藩主の本妻と子どもが該当し、藩主の子を生んだ側妾が身分上昇して含まれることもあった。「上々様」と称された人びとは江戸に居住し、中屋敷(なかやしき)=世嗣(よつぎ)とその家族=または下屋敷(しもやしき)=隠居や後家=を居所とした場合もあったので、日頃からひとつ屋根の下で生活していたのではなく、上屋敷には年中行事や藩主家族の成人儀礼などの際に集った。
藩主の娘に注目すると、彼女たちは生家への帰属性が強く、大名家に輿入(こしい)れして生家を離れた後も、藩から「上々様」として処遇された。
5代藩主佐竹義峰(よしみね)=1690~1749年=の娘は4人が成人し、長女蓮寿院(れんじゅいん)=照=は伊予松山藩主松平定喬(さだたか)、二女玉鳳院(ぎょくほういん)=富=は信濃松本藩主松平光雄(みつお)に輿入れした。四女光源院(こうげんいん)=直=は分家大名佐竹壱岐守家(いきのかみけ)の世嗣で後に7代藩主となる佐竹義明(よしはる)に輿入れし、8代藩主義敦(よしあつ)=曙山(しょざん)=を生んで間もなく病没した。五女本清院(ほんせいいん)=寿(ひさ)=は平戸藩主松浦(まつら)家の世嗣邦(くにし)に輿入れしたが、夫の没後、年も若かったため佐竹家に戻り、生涯を浅草の下屋敷で過ごした。松浦家は義峰の母聖相院(しょうそういん)の生家であり、光源院と本清院の婚姻は、姻戚大名家との関係を維持するためのものであった。
義峰の娘たちは佐竹家で慶事があると、輿入れ先から上屋敷に集い、料理を振る舞われ、人形浄瑠璃を見物することもあった。また藩主の側妾や奥女中の処遇など、奥御殿の運営に関して意見を求められることもあり、佐竹家の外から生家を支えた存在であった。
なお彼女たちは皆、秋田生まれであった。義峰の側室寛厚院(かんこういん)=保野=を母とし、久保田城本丸の奥御殿で誕生したので、玉鳳院と本清院は11歳、蓮寿院は13歳、光源院に至っては16歳まで秋田で育った。佐竹家では藩主の参勤交代時に側妾も秋田に下向しており、久保田城で出生した子は、多くが夭折(ようせつ)したが、成長すれば江戸上屋敷に居を移した。これを江戸登(えどのぼり)と言い、藩主の娘は上屋敷で父の本妻と擬制的な母子関係を結び、養育された上で、大名家に輿入れしたのである。
9代藩主佐竹義和(よしまさ)の娘本光院(ほんこういん)=節=が6歳で江戸上屋敷に入ったのと比べると、義峰の娘たちの江戸登は随分と遅い。江戸上屋敷にあった義峰本妻円宗院(えんしゅういん)=利=は、藩主の娘としての素養を身につけさせるため、幼少期のうちに彼女たちを江戸で養育することを望んでいた。しかしながら、18世紀半ばの秋田藩は財政難で移動経費を捻出できなかったため、4人とも江戸登の時期が遅くなったのである。
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仙台藩伊達家では、仙台城で出生した藩主の娘が身分の高い家臣の家に輿入れし、生涯を国許(くにもと)で過ごした事例もあった。一方、佐竹家ではそのようなことはなかった。秋田藩主の娘に求められたのは、秋田で藩主家と家臣の家との関係を強化するというよりは、江戸で大名家に輿入れし、大名家とのネットワークを形成、維持することであったと言える。
秋田藩の江戸上屋敷は藩主家族が集い、藩主の子の養育の場としてあり、さらには大名家とのネットワークの形成と維持のための重要な拠点としてあった。その分、そこでの支出が藩財政に重くのしかかっていたのだった。