中国最古の王権と宮殿(秋田大・内田昌功) 力の源は農と儀礼にあり
中国では紀元前6000年までに農耕が始まり、黄河流域ではアワやキビが、長江流域ではイネが栽培された。人口は増加し、紀元前4000年頃には各地に文化を共有する地域的なまとまりが形成された。これらの地域間ではゆるやかな文化交流もおこなわれるようになる。
紀元前3000年紀(前3000年~前2001年)は混乱の時代となる。人口はさらに増え、巨大な集落が出現する一方、集落間の緊張が高まり、重厚な城壁や濠(ほり)で守りを固めた集落が現れる。また断続的に気候変動が起き、干ばつや洪水が繰り返し襲った。こうして紀元前3000年紀の後半には、各地の文化圏は一様に衰退に向かうことになる。
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こうした中で、紀元前2000年紀(前2000年~前1001年、日本の縄文時代後期~晩期に相当)に入ると、黄河中流域だけが発展を開始する。要因の一つと考えられるのは、農業技術の革新である。この時期の遺跡からは、従来のキビやアワに加え、南方のイネ、西方のコムギ、さらにダイズが発見されている。中国の中心に位置するこの地域は、周辺地域の作物を積極的に取り入れていったようである。
多様な作物の栽培は天候不順のリスクを軽減し、窒素を固定するダイズの栽培は輪作を効率化した。この結果、農業生産力は大幅に上昇し、この地域の飛躍的発展につながった。
1959年、この地で大発見があった。河南省の洛陽盆地の一角で、それ以前とは全く異なる特徴を持つ都市遺跡が発見されたのである。遺跡は所在地の名を取って二里頭(にりとう)遺跡と呼ばれる。遺跡の年代や、その文化の地理的広がりから、『史記』などの歴史書に見える最古の王朝・夏(か)王朝の都だったと考える研究者も多い。
遺跡の面積はおよそ4平方キロメートルあり、この時期の都市としては破格の大きさである。さらに注目されるのは、壮大な宮殿の出現である。遺跡の中央には、土壁で囲まれた宮殿区があり、いくつかの宮殿の遺構が確認された。中でも1号宮殿の遺構はおよそ100メートル四方あり、土を突き固めて作られた基壇の上に建設されていた。このような宮殿はこれ以前の都市には見られず、巨大な王権が出現したことを物語る。
1号宮殿には日常生活の痕跡はなく、儀礼の舞台として使用されたようである。この宮殿は、その後の歴代王朝の宮殿と同一の特徴を備えている。北から南に、正殿、殿庭、門が直列し、それらを回廊で囲む構造(図を参照)は、以後3500年にわたり宮殿の基本構造として継承されている。文献資料と後世の宮殿の用法から、そこでは君臣関係や身分の上下を再確認する儀礼がおこなわれていたと考えられる。宮殿の巨大さは王権の大きさを、中心軸は王権の中心性を、閉ざされた空間は、入れるものと入れないものの身分差を象徴し、認識させる効果を持った。
儀礼では多様な玉(ぎょく)製の道具が使用された。玉は早くから中国で珍重されてきた素材で、現在もなお中国人にとって特別な宝石である。二里頭では宮廷儀礼の成立とともに、貴族の身分を示す玉器も出現している。また初めて青銅製の酒器が用いられた。青銅自体はこれ以前から利用されていたが、製造技術は格段に向上し、精巧な酒器が作られた。当時の人々にとって、金属の輝きは初めて見るものであり、儀礼の効果を高めたはずである。
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このように黄河中流域は革新的な農業システムによって気候変動の時代を乗り切り、二里頭の王権を生み出した。二里頭の王権は、壮大な宮殿と、新技術や希少材を駆使した宮廷儀礼によって王権の安定を試みた。象徴的なのは、二里頭遺跡に城壁や環濠(かんごう)がなかったことである。紀元前3000年紀の大規模集落や、二里頭に続く殷(いん)前期の都は高大な城壁により厳重に守られており、二里頭遺跡とは異なっている。
城壁を必要としなかったことは、二里頭の王権が試みた新たな支配の方向性がある程度成功したことを示しているように思われる。儀礼は城壁に匹敵する力を持ったのである。二里頭の王権は、紀元前16世紀頃、殷によって滅ぼされるが、その宮殿建築や儀礼、青銅器製造の技術は、殷や周(しゅう)、さらにその後の王朝に引き継がれていくことになる。