「鳥は」。詩人・最果タヒさんの連載「きょうの枕草子」⑧
清少納言は、最果さんが「百人一首」の歌人の中で、友のように惹かれた人だと言います。「枕草子」現代語訳、第8回は「第三八段」。鸚鵡、山鳥、鶴、すずめ、鶯、ほととぎす。
最果タヒ「きょうの枕草子」⑧
清少納言「枕草子」
現代語訳:最果タヒ
絵:矢野恵司

【第三八段】
鳥は、この国の鳥ではないけれど、鸚鵡(おうむ)はすてき。人が話したことをまねするらしい。
ほととぎす。くいな。しぎ。みやこどり。ひわ。ひたき。
山鳥。友達がいないのをさみしがるから、鏡を見せてやるといいって聞きます。あどけなくてかわいいな。谷を隔てて相手と離れているときなんて、かわいそうで見てて苦しい。
鶴はさすが大袈裟にも程がある見た目だけれど、「鳴いた声が雲のところまで聞こえる」、そこは見事です。
頭の赤いすずめ。斑鳩(いかるが)の雄鳥。たくみどり。
鷺(さぎ)は見た目が本当によくない。目つきが悪くて、不気味で好きになんてなれないけれど「ゆるぎの森の鷺さえも一人で寝るつもりなどないと争っている(※1)」なんて歌もあるし、そこは面白くていいな。
水鳥だと、おしどりは好きですよ。居場所を交代しては「羽の上の霜を払う」と言いますし。
千鳥も、好きだな。
鶯(うぐいす)は、詩や歌でもすてきなものとして扱われて、あの声はもちろんのこと、見た目もあんなにも優美でかわいいのに、宮中ではまったく鳴かないの! 意味がわからない……。他の人がそうなんですよって言ってきた時は、いやまさか……と思ったけれど、10年ここでお仕えしてずっと気にしてきて、本当にちっとも聞こえてこないんです。ちっとも! 竹の近くに紅梅があるのに。むしろ毎日だって来てほしい場所なのに。で、宮中を出たら、粗末な家の大したこともない梅の木で、鶯はうるさいくらい鳴いてます。夜に鳴かないっていうのも、ねぼすけすぎって思うけど、そんなことは言ったところで、どうしようもない。
夏と秋の末までは、ちょっと年をとった声で鳴いているし、鶯ではなく「虫食い」なんて名前で、品のない人には呼ばれている。それはがっかりだし、ほんと変だ。雀みたいにずっとそのへんにいる鳥ならばそんなに気にならないんだけど。春に聞こえてくるものだからこそ、「年立ちかへる」の歌だとか、生きた言葉で歌にも詩にも登場できるわけで。やっぱり春だけに鳴く鳥だったらよかったのにな。人だって、大した人ではなくて世間からの評判も落ち目な人のことなら、誰も悪く言いません。鳶(とんび)やカラスなら、ジロジロ見たり、耳を澄ましたりなんて誰もしません。要するに「鶯は素晴らしいものでなくては」と当たり前に思っているから、このへん、ぴんとこなくて気になってしまうのだ。
賀茂祭の翌日、斎王が斎院に帰るところを見ようとして雲林院・知足院らへんの前に車を停めていたら、ほととぎすが待ってられないという感じで鳴いて、それを鶯がとてもきれいにまねをしていた。高い木々から、ほととぎすや、ほととぎすを真似する鶯の声がなかよく聞こえてくるというのは、あまりにも素敵な時間でした。
ほととぎすについては今更言う必要もありません。早くから得意そうに鳴いているのに、見ると卯の花や花橘なんかにとまって、ちらちら隠れているのも憎いほど気が利いています。五月雨の、夏らしい短夜(みじかよ)に目を覚まして、なんとか他の人より早くに聞けないかなぁと待ってみたとき。真夜中に鳴きだすその声が、凛としていて愛らしくもあり、魅力的なものだから、心が惹きつけられてもはや、宙に浮いたような心地がしてたまらない。六月になるともう鳴かなくて、すべて完璧、いちいち讃えるのも野暮に思います。
夜に鳴くものって、やはり、なにもかもが素晴らしいです。赤ちゃんの夜泣きだけは、ちょっとそうとは言いがたいけど。
シェアする
この連載の続きを読む
