猪村勢司「不忍池」(16) 第40回さきがけ文学賞入選作
屋敷には当主の若夫婦、舅姑、そして大姑(おおしゅうとめ)が未だ健在のいわゆる二人姑(ふたりしゅうとめ)の家で、前任の下女たちが姑たちのいびりに音をあげて屋敷を去っていく中、つせは見事に立ち回り、評判を勝ち得ていった。
若夫婦に子は居らず、まだかまだかとめでたい報せが待ち望まれていた。つせが奉公に上がって二年が経ったある日、屋敷に吉報が齎されたが、それは手放しに歓迎されるものではなかった。
つせの腹が膨らんだのである。お手が付いたのだ。
自ら望んだことではなかったが、姑たちの覚えもめでたかったこともあり、妾奉公として屋敷に留まることとなって、無事男児を出産した。新太郎である。いわゆる落とし胤というやつだ。
中々身篭ることがなかった奥方はつせと新太郎の存在を認めざるを得なかったが、新太郎が百日祝いの食い初めと相成った頃、今度は奥方が子を授かり、無事に男児を産んだのである。産後の肥立も良く、翌年、立て続けに年子の男児を出産したのだ。
正統な男児が二人産まれると、いよいよつせと新太郎の存在意義も薄れてしまうのが成り行きだ。
同じ家格の旗本から娶った妻女と芸者の家に生まれた根津生まれの下女が同じ土俵に立てるわけがない。
産前までは子を授からぬ引け目もあったためか、慎ましい武家の妻女然とした趣があった奥方は、産後、多年に渡って心に秘していた忸怩たる思いや鳴りを潜めていた自負心が表に出はじめ、その矛先をつせ親子に向け始めたのである。
いくら姑たちがつせを気に入っていたとはいえ、妻女が子を産んだ以上、つせと新太郎は諍いの種になるのは火を見るより明らかで、妻女は二人を追い出すよう画策を始め、二人姑をも抱き込んでつせに嫌がらせを始めた。
女子三人の徒党に当主もいよいよ根負けし、手切金を握らせて家を追い出した形をとったが、どうやら旗本はつせに惚れていたらしく、妾宅を拵え、そこにつせ親子を住まわせ、二人の元に足繁く通っていた。しかしその事実が露見すると奥方は激昂し、起請文まで用意して、二度と夫と会わないよう誓いを立てさせて、妾宅を引き払い、生まれ育った宮永町へと押し込めてしまった、とのことであった。
「追われるように宮永町に戻ってきたつせさんは、うちで働き出したのは三年ほど前。女の細腕ひとつで息子のために働いてた人がこんなことになっちまうなんて、世の中ってのはなんて理不尽なんでございましょうか。無理矢理でも銭押し付けて安心させてやれば、今頃新太郎の奴、手習いで机に向かってたでしょうし、ここいらに来て絵でも描いてたんじゃねぇかって思うと、居た堪れねぇ」
つせの不憫な半生と、親子が江戸に居れなくなった経緯(いきさつ)を聞き、座に堪えられなくなった武助は立ち上がろうとすると、伊八は動きを制すように言葉を続けた。
「しかしね小田野様、気休め言うわけじゃございませんが、ここいらだと千住大橋(せんじゅおおはし)の方かと思いますが、四谷(よつや)の大木戸(おおきど)にしてもどこにしても、江戸払いってのは大木戸の外まで奉行所の役人が送り届けて、罪人がえっちらおっちら歩いていくのを見届けて踵を返すっ塩梅でございます。しばらくしてまた戻ってくるものがほとんどだ。まぁ勝手知ったる宮永町って訳にゃいかねぇでしょうけど、つせさんも新太郎もきっとまた江戸のどっかで名も素性も改めて息災にしてると思いますぜ」
伊八の慰めも耳には入ってきているが腹には落ちなかった。
「つせさんは三味線が達者だ。どっかで爪弾いてるはず、だからそう気を落とさねぇでくださいませ」
慚愧に堪えられず、伊八に礼を告げて店を後にした。
遣り場のない怒りと、己の無力さ、そして遣る瀬無さに押し潰されそうになる。胸がかきむしられる思いだ。
――なにも知らなかった。
己はあの親子が背負っていた悲しい過去と厳しい現実をなにひとつ知らず、つせにうつつを抜かし、厚かましくも新太郎の面倒を買って出ていたのだ。厚顔無恥にもほどがある。
妾の話など、武家の世に身を置く己にとって珍しい話ではない。江戸市中の旗本御家人、諸国の藩邸や国許の角館でも、この類の話は溢れかえっている。
なによりも御家の存続が尊ばれる武家の世において、相続問題は容易ならざる一大事である。かくいう己も、妻を娶った矢先から、早う子を作れと責付かれたことは昨日のことのように覚えている。子ができなければ離縁される嫁も珍しくなく、嫡子のためなら腹は借りものという考えが罷り通る世なのだ。
この御家第一の習いのせいで不遇を強いられる人々や陰に追い遣られて涙を呑む人が居るという事実は、それとなく理解していたつもりであったが、まさかその犠牲となった当事者の親子に対し、なにも知らずに厚かましく深入りしていたことに恥じ入るばかりだ。
己は犠牲者を生み出す側に居るにも関わらず、あの親子の生い立ちと現状を知らぬことを良いことに、臆面もなく余計な世話を押し付けていたのだ。
つせは、自身が背負っている悲しい現実を一切、己に見せなかった。おくびにも出さなかった。そして愛息子の新太郎と共に健気に日々を過ごしていた。そんな親子の平穏な営みを、己の安い憐憫と浅はかな行いでぶち壊してしまったのだ。
なにが、子はどんな才を秘めているかわからない、だ――
責任も取れぬ分際で、無責任なことを言ってしまった己を呪う。
己の言葉のせいで、あの親子は江戸を去らねばならなくなった。
今、どこでなにをしているのか、今すぐ会って謝りたい――
「これは先生」
茫然自失の状態で歩いていると、いつの間にやら池之端仲町に差し掛かっており、勧学屋の亭主大助に呼び止められた。蚊の鳴くような声で挨拶を返す。
「もうてっきりお越しになられないのかと」
大助は満面の恵比寿顔をこちらに向けている。
「今日は画室にお越しになられますか」
とても絵など描く気が起きない。視線を足元に落とし、頭を振った。
「左様でございますか――。そういえば先生、正月の巳待ちの日に先生が面倒を見ておった坊やと芙蓉庵の女中がうちに来ましてな」
天から糸で引っ張られたかのように自然と面が上がった。
「小田野様からお預かりしてたものを返しにきたとかなんとかで、荷物を持って参りましたぞ」
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