
時代を語る・丹波望(29)多くの苦難経て開学
平成8(1996)年からの2年間は、看護学校開学の準備に追われました。教員や事業費の確保、申請書類作成など作業は膨大です。厚生省(当時)から正式な設立認可が得られるのは開学の約3カ月前で、それまでは…
「教育」に関するニュース一覧です。
平成8(1996)年からの2年間は、看護学校開学の準備に追われました。教員や事業費の確保、申請書類作成など作業は膨大です。厚生省(当時)から正式な設立認可が得られるのは開学の約3カ月前で、それまでは…
秋田しらかみ看護学院は平成10(1998)年4月、能代市落合に開学しました。設立母体となった能代文化学院の学院長として奔走し、行政や住民の総力を結集して地域初の高等教育機関の実現にこぎ着けました。
昭和37(1962)年に能代市に戻った頃、社会人向けに夜間中学のような教室を開こうと思ったことは前に触れました。中高生向けに地の塩塾を開いてからも、全ての世代が学ぶ機会を重視してきました。
北秋田市の認定こども園「しゃろーむ」も、僕が運営に携わった施設の一つです。鷹巣教会との関わりが深い鷹巣保育園と鷹巣教会幼稚園が平成19(2007)年に機能を一元化してスタートしました。ルーツは昭和1…
地の塩塾の最盛期には中学1年から高校3年までの6学年がそれぞれ約40人、計240人に英語を指導しました。各学年の授業は週2回です。毎回僕の祈りで始め、一人一人と握手して終えました。
地の塩塾を開いた翌年、昭和49(1974)年のことです。中学卒業後に中学生向けの勉強を希望する生徒がいました。驚いたのは、アルファベットの「b」と「d」を区別できないなど、ごく初歩の知識が身に付いて…
昭和48(1973)年に牧師を辞して「地の塩塾」を始めるに当たり、悩んだのは授業料を納めてもらうかどうかです。僕はどちらかというと人からお金をもらうのが苦手で、授業料なしで塾を運営できないかと考えま…
高橋今日子(たかはし・きょうこ)さん(42)は、今年1月に2人の息子と一緒に千葉県船橋市から、秋田県五城目町に移住した。博士(ドクター)になった後に任期付きで働く「ポストドクター」の研究員。東京大に…
秋田県男鹿市は24日、中学校運動部の休日の部活動を、来年10月から段階的に学外の団体の管理下に移行させる方針を明らかにした。市と市教育委員会、市スポーツ協会の3者が連携し、運営主体となる事務局を立ち…
昭和37(1962)年に古里・能代市へ戻ってから長い間、中高生に英語を指導しました。目標は、生徒がテストでいい点数を取ることではなく、自分でものを考え次代を担う人材を育てることでした。生徒が社会の問…
秋田県大潟村の稲刈りが終盤にさしかかった10月中旬、農業法人大島農園の圃場では朝からタマネギの定植が行われていた。圃場面積57ヘクタールのうち、2・5ヘクタールでタマネギを栽培。代表の大島和夫さん(…
能代市に戻った昭和37(1962)年、生活のために始めた「能代教会英習教室」は好評でした。主な対象は能代第一、第二両中学校の生徒です。それぞれ使っている教科書に沿って文法をきっちり教えました。数カ月…
10月中旬、秋田県立大大潟キャンパスのビニールハウスを訪れると、アグリビジネス学科3、4年の9人がイチゴの定植作業を行っていた。先進園芸技術開発プロジェクト(園芸プロ)に所属する学生だ。
東京神学大学の大学院を修了した僕は、昭和37(1962)年に古里能代市へ帰り、父の源一郎が牧師を務める能代教会の副牧師となりました。自分が洗礼を受けた「母教会」でもありますが、決して喜んで戻ったわけ…
秋田県立大生物資源科学部の大潟キャンパスが創立50周年を迎えた。前身の県立農業短期大が1973年、大潟村に開学してから半世紀。大干拓地の中心部に位置する広大なキャンパスを訪ね、その歩みと現在地を探っ…
国際基督教大学(ICU)を昭和32(1957)年に卒業した1期生は180人ほどで、このうち半数はICUの大学院や他大学に進みました。戦後初の就職氷河期で、過去に卒業生のいない大学でもあり、就職志望の…