観世十郎元雅(1)

(2018年11月4日 付)
作・榊田圭(さかきだ・けい)
1957年神奈川県小田原市生まれ。早稲田大第一文学部日本文学科卒。79年から同県内で高校国語教員を務め、2017年に退職。同県大磯町住。
絵・斎藤昇(さいとう・のぼる)
1946年秋田市生まれ。岩手大特設美術専攻科修了。87年度県芸術選奨。90年自由美術展平和賞。95年安井賞展出品。自由美術協会会員。秋田市住。

序章 洛中

 室町殿が死んだ。

 応永三十五年(一四二八年)一月十八日、室町幕府第四代将軍足利義持没。

 観世十郎元雅は、洛中観世屋敷にて父の前に座っていた。

「室町殿は何もなさらなかった」

 父の言い方は冷ややかだった。

「後継指名さえなさらなかったのだからな」

 義持は応永三十年に嫡子義量に将軍職を譲っていた。しかし三十二年第五代将軍義量はあっけなく亡くなってしまったのだ。在位は二年に満たなかった。第六代将軍の指名をしないまま、義持は死の床についた。空いたままの将軍職をどうしたらよいのか困り果てた幕府重臣たちが後継指名を迫ると、床に伏せたまま義持は言った。「皆で寄り合い相計らうように」と。そこで、皆は寄り合い相計らい、まず新将軍候補を決めた。「室町殿には御弟君が四人もいらっしゃるゆえ、そのいずれかに」と。しかし四人のいずれも出家の身である。全員が断った。

 ここで名案を出したのは三宝院である。

「四人にクジを引いていただくというのはいかがでございましょうか」

 義持は頷いた。その枕元に座り、三宝院はさっそくクジを作り始めた。阿弥陀クジである。四人がそれぞれにクジを引いた。何しろ臨終に間に合わせねばならない。急がねば。

「飯粒をもて!」

 三宝院の声が臨終の部屋に響いた。

 厨から急ぎ運ばせた飯粒で阿弥陀クジを固く糊付けした三宝院は、クジの封を幕府相伴衆山名時煕(ときひろ)に書かせた。管領畠山満家がクジを持ち、男山八幡宮に急いだ。神前にて宮司が当たりクジを決めた。畠山は、その阿弥陀クジを大事に押し頂いて帰ってきた。一月十七日夜のことである。

「室町殿は」

「まだ……」

「そうか。間に合ったか」

 あとは義持の死を待つばかりだ。

 翌一八日巳の刻半、義持は事切れた。管領以下諸大名はこれを見届けると、義持の枕元からぞろぞろと場所を移した。そして、皆が見守るなか、畠山満家がおもむろにクジを開封したのである。

「青蓮院義圓様に決した」

 ここまで一気に話すと父は天を仰いだ。元雅は父の目を追った。天井だった。観世屋敷は簡素ながらも格天井である。その曲がり具合に沿って、父の目はゆっくり床へ降りていった。

「初めは固辞なさったらしい」

 父は再び頭を上に向けた。

「候補は四人もいらっしゃる。よりによって青蓮院様でなくとも……な」

 父はふっと元雅を見た。そして、はっとしたようにまた天井に目をやると、そのまま口をつぐんでしまった。

 青蓮院義圓は、元重を贔屓にしていたのだ。

 元雅の父、観世三郎元清が三代将軍義満の目にとまったのは、醍醐寺清瀧宮の薪能であった。元清、十七歳の春である。そして、将軍の寵愛篤い申楽師として、大和結崎から洛中に駆け上がった。しかし、元清は嫡男に恵まれなかった。そこで、甥の元重を養子に迎えた。元重は興福寺より「天下無双」の称号を得るほどの申楽演者だったからである。

 元重の元服を期して、観世三郎元清は自らの「三郎」を贈った。この時、観世の後継は養子の元重に決まったのである。直後、嫡男元雅が生まれた。続いて弟元能も。元雅は、従兄にあたる元重や弟の元能とともに申楽を身に付けていった。

 元清は還暦を機に観世太夫を元雅に譲った。この時、元重がどのように思ったか、元雅にはわからない。父は、将軍より拝領した土地をすべて大和結崎にある補厳寺に寄進し、世阿弥の号をいただくと、以降、観世入道として太夫元雅の後見を務めている。

 一方、元重は情感たっぷりに「野宮」を舞ったすぐ後に、動きの多い「安宅」を入れるなど、客が大喜びする舞台構成を打ち出して、青蓮院の贔屓のみならず、洛中の評判をほしいままにしていた。

 禁裏では、称光天皇が重体の床にあった。

「大便所にて一旦絶え入った」という噂が流れたと思うと、じきに「御蘇生」の報がある。そんなことがもう二年も続き、すでに次期天皇を擁立する勢力が動き始めていた。南北合一の条件からすれば、次の若宮は、当然、南方から出るはずである。

「小倉宮様が逐電なさった。七月七日の夜のことらしい」

挿し絵

 小倉宮聖承は、祖父・後亀山院、父・恒敦宮以来の南方を復権したいと強く願いつつ、嵯峨で蟄居していた。ところが、幕府側が次期若宮を再び北方から出すつもりらしいと伝え聞き、我慢も限界にきたのであろう。

「将軍は三年も御不在。帝も長らく重篤。ここを狙って南方が皇位回復の動きを強めていた。新しい室町殿はことのほか猜疑が強い。南方の動き次第では自らの身が危ないと思い込み、小倉宮様を冷遇した。宮はその日の食い物にさえ困窮なさるほどだった」

 父は詳しかった。

「やはりクジ引きで決まったという身だからでしょうか」

「口を慎め。それは決して口にしてはならぬ」

「しかし、父上。皆が噂をしております。『クジで決まった将軍だ』と」

「滅多なことを言ってはならぬ。我ら申楽の仕事は、将軍や帝の引き立てあってのものだ」

「それにしても宮がまさか……。思い切ったことを」

「手引きする者がいたのだ。小倉宮様は使われただけだ」

「小倉宮様はどちらへ」

「伊勢だ。北畠満雅殿を頼った」

 伊勢の土豪北畠家は、かねてより吉野朝に近く、南北の戦さでは南方の雄として盛んに動き回った。南北合一の後、しばらく息を潜めていた北畠は、室町将軍家の後継難と称光天皇の重篤な病床という二つの混乱を見て、自らの勢力拡大の機ととらえた。南方の小倉宮と東国の鎌倉公方足利家。室町幕府に不満を抱く両者の手を握らせ、自らも一気に都に攻め上がろうと画策したのである。

 七月二十日、称光天皇が死んだ。すでに十七日に後小松院の仙洞御所にて北方の彦仁王を後小松の猶子とする儀が執り行われていたため、帝の死を待たずして、若宮は北方で決していたのである。

「小倉宮様はこれからどうなさるのでしょうか」

「わからぬ。しかし、今後は我らも十分に心せねばならぬぞ。いかなる関わりとも……な」

 元雅は父の言葉に曖昧に頷いた。将軍家にしろ、天皇家にしろ、観世座を贔屓にしてくれるのは誰か。父の関心は今、その一点にだけある。

 年も暮れようかという日。観世屋敷には若松が運び込まれていた。しかし父は、年迎えの仕立てさえ忘れたように、朝からせわしなかった。

「北畠満雅殿が伊勢にて討ち死になさった。南方蜂起を持ちかけたのは、なんと鎌倉公方様だったらしい。吉野の復権を表向きに、南方を一斉に蜂起させ、その勢いに乗じて上洛し室町殿を奪い取るとな。これに伊勢北畠家は飛びついた。ところが……だ。蜂起してみたら、鎌倉公方様からの援軍が……」

「……」

「来ない」

「えっ」

 元雅は思わず大声をあげた。

「謀られたのだ」

「謀られた? 誰に」

「それがわからない。鎌倉公方様が、室町殿の座を狙っていたことは間違いない。しかし、伊勢にやってきた鎌倉からの使者がな、どうも偽物だったらしいのだ。北畠殿が不審に思い問いただすと、使者はそのまま逐電してしまったという」

 またも逐電か。

「伊勢の蜂起は後に引けないところまで来ていた。なにしろ小倉宮様を嵯峨から伊勢に出奔させてしまっていたのだからな」

 父はふうっと息を吐いた。

「鎌倉の援軍なしで戦さに突入すれば、北畠殿の敗北は目に見えていた……」

 洛中は、待たれている「死」の話ばかりだ。

 青蓮院義圓が還俗し、新将軍「義宣(よしのぶ)」と名乗ることとなった。洛中はさっそく噂した。「世を忍ぶ」だと。これを気を病んだ義宣は、正長二年(一四二九年)三月十五日、征夷大将軍就任の初仕事として自らの改名を行った。新将軍「義教(よしのり)」の誕生である。

 同じ年の五月三日。義教は新将軍として二番目の仕事をした。笠懸馬場にて立合能を催したのである。実物の馬・甲冑を用いた勇壮な演能に洛中は湧いた。演目は「一ノ谷先陣」。主役の梶原景季を元重、源義経を元雅が演じた。配役はむろん新将軍の意向である。これを機に、申楽師「三郎元重」が「観世太夫元重」と呼ばれるようになった。洛中もそれに倣って一斉に元重を引き立てにかかった。

 観世座は、新将軍が贔屓にする三郎元重と、元清元雅親子に分裂した。洛中は観世二座と呼び、おもしろがった。