花冷え(1)

(2019年11月18日 付)
作・脇真珠(わき・しんじゅ)
1959年神奈川県平塚市生まれ。横浜商業高校卒。2010年「ちよだ文学賞」(千代田区主催)大賞受賞。横浜市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 四月も半ばだというのにまだ毛布が手放せない。

 雲の隙間から地上を覗き見ている季節の神様が、春と冬の引き出しをいたずらに開閉している姿が浮かぶ。ちぐはぐな天気に右往左往している人間を眺めては「イヒヒ」と舌を出している。

 そんな想像を巡らせながら私は、思わず苦笑してしまう。思い浮かぶのはツルっ禿げに山羊ひげの、杖を片手の仙人のような神様だ。幼稚園児にも負けそうな自分の想像力のあまりの貧弱さに、笑いと共にため息が漏れる。

 洗濯物を畳みながら軽く炬燵を睨む。ここ数日、今日こそはしまおうと思うのだが朝晩の冷え込みについ気持ちがくじけてしまう。どうしたものか迷っていると、つけっぱなしのテレビの画面が天気予報に切り替わった。

 手を動かしたままお日様マーク満開の日本地図に視線を向ける。画面の端でタレントのような女子アナが「明日は真夏日になるでしょう」と、びっくりした猫みたいな目をくりくりさせていた。変に鼻にかかった声が気に障る。画面のこちら側に投げる媚びた目つきと、明日の天気にうんざりして私は目を逸らす。

 「なんでまた最近のアナウンサーは、こんなんばっかりなんだかねぇ。まぁ、気持ち悪いったら」

 梅干しを舐めながらお茶を飲んでいた母が、さも憎らしそうに鼻を鳴らした。

 「腐っても女子アナってね。頭はいいんだろうけど」

 相槌を打ち、私は肩をすくめる。いくら明日が真夏日だからといって、こんな寒い日にノースリーブのセーターを着ているのはどうかと思う。五十の声を聞いてからあれよあれよと二の腕が逞しくなり、袖の無いものなど着られなくなった僻みも多少あるのだろうけれど。

 スタジオの中がどんなに暖かくても、お天気担当ならもう少し季節感を大切にしてほしい。と、ミニスカートから伸びたマネキン人形みたいな足を横目に、僻み根性満載のおばさんは真剣に思うのだ。

 「こんなのにかぎってさ、年収何億とかのスポーツ選手捕まえるんだよねぇ。ま、どーでもいいけどさ。おー、すっぱ」

 ひょっとこも降参するほど唇を突き出した母が、仇でも吐き出すように梅干しの種を掌に乗せた。それをそのまま湯呑みに落とし、「ズズッ」と大きな音をたててお茶を飲み干した。

 「あー、まったくね。寒いだ暑いだ、体がついていかないよ」

 言いながら炬燵の角に手をついて「よっこら」と立ち上がる。いつも持ち歩いている巾着袋とストールに手を伸ばした母を見て、私は洗濯物を畳む手をとめた。

 「帰るの?夕飯食べていけば?」

 娘たちもじきに帰ってくるからと一応引き留める。

 「ふん」と鼻に皺を寄せて母は、鶏の足に似た手を小蠅でもはらうように振り、さっさと玄関に向かう。

 「小遣い欲しい時だけばあちゃんばあちゃんだ。あとは汚いもんでも見るみたいな目をして何が孫だい。まったく、どんな教育してんだか。親の顔が見てみたいもんだ」

 こめかみが軽く引きつった。それを苦笑に包んで私は受け流す。いつからか体の真ん中に住み着いた黒い虫のような塊が、苦い液体を滲ませて喉の奥から這い上がってくる。靴を履く母の細い背中を見つめながら、私は握りしめた拳を唇にあてる。這い出してきそうな苦い虫を溜息ビームで退治する。

 「好きなものを好きなだけさ、ひとりでのんびり食べたほうが気が楽だよ」

 可愛げなくそう言って、母は口をへの字に曲げた。

 「はい、おじゃまさま。嫌だろうけどまたくるよ」

 笑った口元に小骨のような皺が寄る。返事の代わりに私は無理やり笑顔を張り付ける。

 巾着袋を腕にぶらさげて、母がストールを肩に捲く。サンダルをつっかけて私は玄関の扉を開けた。とたん、春とは思えない冷たい空気が勢いよく攻め込んできた。

 「おお、冷たいねぇ」

 小さい体をいっそう縮めて母は、頬のあたりまでストールを引き上げた。

 「明日が真夏日って、あのアナウンサー、嘘ついてんじゃないのかい」

 眉をしかめて本気で憎らしそうな顔をする。

 「あの子が予報してるわけじゃないんだから」

挿し絵

 とんだ言いがかりだと思わず笑ってしまう。ノースリーブにミニスカート姿は頂けないが、嘘つき呼ばわりには同情の余地がある。

 足下を薄いピンクの花びらが通り過ぎる。古い一戸建ての、そう広くない庭の片隅で桜の木が震えていた。そろそろ花も終わりの時期に、ちぐはぐな陽気のせいか今頃満開になっている。

 「三寒四温てなんだっけって感じよね、今年は。桜も咲いたはいいけど、いつ散ればいいのか迷ってるみたいよ」

 肩のあたりで母が、また「ふん」と鼻を鳴らした。

 「なに小難しいこと言ってんだよ。困ろうがなんだろうが、みんないつかは土に還るんだ」

 足下で遊ぶ花びらを、母は忌々しそうに蹴散らした。

 「さてと。姥桜は退散退散と」

 私が「気をつけてね」と言う間もなく、母はつんのめるように歩きだす。そのまま振り向きもせず、ストールで包んだ体を縮めて遠ざかっていく。その後ろを、ピンクの花びらがコロコロと寒そうに追いかける。

 「まったく…」

 私はいつものように、小さく丸まった背中が角を曲がって見えなくなるまで、溜息まじりで見送った。

 母は今年で七十五歳になる。私が五歳の時に彼女はやってきた。

 「日出海ちゃん、こんにちは。日の出の海なんて、素敵な名前ね」

 実の母親の記憶がなかった私は、彼女の柔らかい笑顔をすんなりと受け入れた。

 「おばちゃんのこと、好きになってくれるかな?」

 繋いでいた手を父が、彼女の細い手へと促した。初めての感触にはにかみながら、私はこくりと頷いていた。

 「じゃあ、今日からお母さんね」

 両手を握られたまま、私はまたこくりと頷いた。「お母さん」という響きが小さな胸をくすぐった。まるで甘いお菓子を食べたように頬が緩んだ。父と彼女の、難しい試験に受かったような表情は今でもはっきりと憶えている。

 若かった母は友達に自慢するほど奇麗だった。私はいつも子犬のように「母さん、母さん」と、小柄な母にまとわりついていた。

 それまで知らなかった柔らかい温もりに興奮していた。これでもかと甘える私を、彼女は当たり前のように受け止めてくれた。

 船乗りだった父が数ヵ月家を空けても、寂しさも不安も感じなかった。家に帰れば「お母さん」がいる。それだけで幸せだった。

 二年後、妹の美岬が産まれた。「日出海ちゃん」から「お姉ちゃん」に呼び名は変わったが、後は何も変わらなかった。

 美岬は母にそっくりでとても可愛かった。甘い匂いを放つ小さな生き物は私を魅了した。美岬を可愛がる私を見て、母は嬉しそうに目を細めていた。

 母と美岬と三人で父の帰りを待つ。凪いだ海に浮かぶ小舟のように穏やかで幸せな日々だった。

 そんな日々に不穏な波風が立ったのは、私が高校生になった年だった。ある晩私は、父と母の激しく言い争うような声を夢の中で聞いた。不安な気持ちを引きずって目覚めた時、父の姿は既になく、母は台所で包丁を握ったままぼんやりとしていた。

 味噌汁の小鍋がぐつぐつと音をたてていた。煮えたぎる匂いが不安を煽る。私は、触れれば折れてしまいそうな母の細い背中を息を殺して見つめていた。

 「お姉ちゃん?」

 まだ小学生だった美岬の寝ぼけた声に、私と母の背中が同時に伸びた。針で刺されたように顔を上げた母が「あ…」と声を漏らした。小鍋の蓋を取り、慌てて火を止めた。煮えた味噌の匂いが腫れぼったい瞼に追い打ちをかける。見たこともない青筋が母のこめかみに浮かんだ。私はさりげなく目を逸らし、美岬の肩に手を回した。

 「一緒に顔洗おうか」

 「うん」

 無邪気に頷いた美岬と洗面所に向かう足が、ぎくしゃくと錆びたような音をたてた。正体不明のうすら寒さが、首筋に張り付いて離れなかった。