奥州馬、最後の栄光(1)

(2019年11月4日 付)
作・浜矢スバル(はまや・すばる)
1973年岩手県滝沢市生まれ。室蘭工業大卒。2017年岩手の文芸誌「北の文学」優秀賞(文芸評論)、18年「北の文学」入選(小説)。CADオペレーター。青森県野辺地町住。
絵・斎藤昇(さいとう・のぼる)
1946年秋田市生まれ。岩手大特設美術専攻科修了。87年度県芸術選奨。90年自由美術展平和賞。95年安井賞展出品。自由美術協会会員。秋田市住。

 人と馬とが寄り添いながら生きる―かつて、我が国のいたるところに、そんな光景が見られた。

 国土の中で育まれた馬―日本在来馬と日本人とは、共に働き、共に喜び、共に苦しみ、寄り添いながら同じ道を歩んでいた。

 ある時代までは。

「骨―これは馬の骨か」

 S教諭は独りごちた。

 窓の外に雪の残る初夏の岩手山が見える。校舎の周囲に広がる水田の土の黒、規則正しく植えられた苗と、長く伸び交差する畦道の明るい緑。配色の対比が目にも鮮やかだ。

 昭和五十四年(1979年)5月。岩手県岩手郡滝沢村―現在の滝沢市。 

 盛岡農業高等学校。通称、盛農(もりのう)。

 岩手県内で最も古く、最も広い敷地を持つ高等学校。敷地内には、校舎や体育館、運動場のみならず水田や畑、果樹園などの実習用の農地、学科ごとの実習棟、牛舎、鶏舎、温室、学生寮、さらに家畜の飼料や肥料の貯蔵庫、農業用機械の倉庫に燃料タンクなど多様な施設が設けられている。

 そこは第三倉庫と呼ばれる建物の一室。古い農業機械の部品等が納められ、人が滅多に立ち入ることのない薄暗い部屋。その日、倉庫の一室で荷物の整理をしていた同校のベテラン教諭のS氏は、埃をかぶった段ボール箱の中に乱雑に詰め込まれた大型動物の骨を「発見」する。

 それらが、馬の骨である事は容易に予測がついた。

 盛農の前身は、明治十二年(1879年)藪川村、現在の盛岡市玉山区藪川に設立された獣医学舎。当時、この地の一大産業だった産駒のため、馬医―馬専門の獣医を育成する機関だった。

 校内の資料室には、ホルマリンに漬けられた馬の内臓・筋骨の標本。馬体の解剖模型、馬の医療器具、蔵書など、往時の歴史を物語る資料が多数納められている。

 そこに大型動物の骨があるとしたら、それは当然馬のものだろう。

「―馬の骨」

 S教諭の脳裏に、数年前、職員室の話題を攫(さら)った一本の電話の内容が蘇った。

「貴校ニ『サカリゴウ』ノ骨ガ、アルハズナノデスガ―」

 その電話は地元の馬事研究家、Y氏からのもの。Y氏は、岩手の馬の歴史を調べるうち、日本の競馬史に名を残す「盛(さかり)号」の存在を知り、その骨格が盛農に寄贈されたことを確認したのだという。

 だが、教員にも職員にも、その骨の所在を知る者はいなかった。

 この学校は、創立以来幾度か校舎を移転している。仮に話が本当だとしても、その骨は移転を繰り返す中で失われたのだろう。

 誰もがそう思っていた。

「そうか。これが―」

 S教諭は、馬の頭と顎と思(おぼ)しき骨を取り出し、組み合わせてみた。

 白く乾き、見た目よりも軽い。眼窩が丸く穿たれ、臼歯が剥き出しになっている。それは笑っているようにも見えた。

 日本列島に「馬」という生物がやってきたのは、四世紀の末と言われる。五世紀の初頭には乗馬も行われていたとみられ、この時代の古墳の副葬品には、馬具や馬の埴輪が見受けられる。

 以後、馬は各地の放牧に適した土地で飼育され、木曽、御前、対馬、野間などの地域でそれぞれ特色を持った「日本在来馬」の血統が形成されていく。

 中でも「馬の最高級品」として、圧倒的な存在感を誇り、国内に広く名を馳せていたのが、陸奥国の北部、現在の青森・岩手・宮城等で育成されていた奥州馬。

 その馬体は日本在来馬の中では抜きん出て大きく、粗食に耐え、蹄が強く、温厚で人の指示によく従い、過大な積載や悪路をものともせず長距離移動をこなす。

 平安時代の奥州馬の呼び名が、尾駮(おぶち)の駒。京に持ち込まれた奥州の名馬の尾に斑(まだら)があった為、以後の呼称となったという。

みちのくの 尾駮の駒も 野かうには 荒れこそまされ なつくものかな

綱たえて はなれ果てにし みちのくの 尾駮の駒をきのう見しかな

 これらは、共に奥州馬―尾駮の駒についてうたった和歌。

 前者は、後撰和歌集にある一首。粗野だと思っていた尾駮の馬が、意外にも従順だった喜びが詠まれたもの。もう一方は、後拾遺和歌集からの一首。長い旅の末にたどり着いた陸奥(みちのく)で、尾駮の駒を目にした感動を謳ったものである。

挿し絵

 歴史に名を残す奥州馬は枚挙に暇がない。

 古くは征夷大将軍、坂上田村麻呂の愛馬、阿久利黒(あくりくろ)。後三年合戦絵詞で語られる奥六郡随一の馬とされた清原家衡の花柑子(はなこうじ)。

 源平合戦と呼ばれる平安時代末の一連の騒乱の中、稀代の英雄、源義経の連勝を支えた青海波(せいがいは)、薄墨(うすずみ)。やはり、義経の愛馬で、一之谷の合戦での鵯(ひよどり)越の奇襲を成功させた大夫黒(たゆうぐろ)。宇治川の戦いで先陣争いを演じた梶原景季の摺墨(するすみ)、佐々木高綱の池月(いけつき)。また、奥州藤原氏の一人、藤原国衡の愛馬、高楯黒(たかたてくろ)は奥州第一の駿馬と称された。

 鎌倉時代初頭、源頼朝の奥州征伐に伴い南部家が糠部(ぬかのべ)郡―現在の青森県東部と岩手県北部を治め「九ヵ部四門の制」を実施。組織的な産駒に取り組むようになる。

 一戸、二戸、三戸―。現在の青森県東部沿岸から岩手県北部にかけての「戸」のつく地名は、産駒のための集落が由来。この地域で出生した糠部の駿馬―いわゆる南部馬は、奥州馬の中でも特に評価が高く「海内第一」つまり日本最高の馬と謳われた。

 中世武家社会が確立し、全国的な物品の流通網が作られる中、運送用あるいは軍事用の馬の需要は増大。奥州馬の権威はさらに高まっていく。

 戦国の覇王、織田信長は乗馬を好み、何頭もの奥州馬を所有していたという。そのうちの一頭、伊達輝宗から信長に贈られた白石鹿毛も、当世随一とされた名馬。

 また、信長はしばしば大規模な馬揃(うまぞろえ)も行ってもいる。

 馬揃とは、騎馬を集め観衆の中を歩ませて、その姿の優劣を競う儀式。土佐藩の祖となる山内一豊は、妻が鏡の中に隠していた黄金により奥州馬、鏡栗毛を購入して馬揃に臨み出世の糸口を掴む。

 奥州驪(おうしゅうぐろ)は豊臣秀吉所有の駿馬。本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた直後、備中高松城にて水攻めを行っていた秀吉は、この奥州驪に騎乗し「中国大返し」と呼ばれる短期間での長距離行軍を決行。山崎の戦で光秀を撃破し、天下を自分の元に手繰り寄せる。

 これら奥州馬に関わる数多のエピソードは、江戸時代、講談で語られ、書物で読まれ、舞台で演じられて、広く人口に膾炙した。古来より近世にかけて奥州馬―とりわけ南部馬は、日本人にとって羨望の対象であり続けたのだ。

 だが、江戸幕府の衰退、武士の時代の終焉と共にその威光も急激に色褪せていく。

 小山田さん―ですよね。巌手(いわて)日報の記者さんの。

 まあまあ、良くいらっしゃいました。

 こういう時、盛岡では『よくおでんした』っていうのでしたか。東京に来て、もう三十年ですから、故郷の言葉もあまり話せなくなりました。

 路に迷いませんでしたか。出迎えは不要とのことでしたけれど、あなたはこの辺りには不案内でしょう。心配していたんですよ。

 はい。まずは入って。そこで靴を脱いでください。

 盛岡辺りに比べたら、この家はちょっと小さいかもしれませんけど、東京ではね、これくらいが普通なんですよ。

 改めまして、私が尾島、尾島セツです。旧姓は藤田といいました。

 お手紙を読ませてもらいました。

 盛について聞きたいとのことでしたね。

 でもねえ、ごめんなさい。私には大したお話はできませんよ。

 あなたが聞きたいのは、不忍池での競馬のことでしょう。

 申し訳ないのですが、私は、盛がそこで走っているのを見たわけではなくてね。それを実際に見たのは、私の兄―達真(たつま)と、それに英教(ひでのり)さんなんですよ。

 明日は、英教さん―東條英教さんの所へ行くのでしょう。

 あの人は頭が良くて、軍の学校を一番の成績で卒業なさった秀才です。盛岡藩の藩校、作人館にいた時分から優秀で評判だったんですよ。馬についてもお詳しいだろうし、私などよりもずっと良いお話をしてくださいますよ。

 私に、お話出来るとすれば―そうですね。子供の頃の家の事、それに盛が競馬に行く前の事くらいですか。つまらない話ですよ。

 それでも、よろしいのですか―。

 そうですか。では、お話させてもらいますよ。