ヒカリ指す(1)

(2020年11月4日 付)
作・北原岳(きたはら・がく)
1975年生まれ、栃木県出身。早稲田大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。愛知淑徳大学創造表現学部講師。名古屋市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 波の音を聞くのも嫌だった。

 風がまとわりついて、ふと意識が遠のく瞬間、目の前にあの大きな壁のような波が襲ってくる幻影を見るからだ。それは音のない世界。すべてをのみこんでいく重さがあるのに、そこには何の音もしない。

 嘘だ。本当はこの世界が破裂してしまうような、絶望的に激しい音がしていたに違いない。だけどその音はもうどこにも残っていない。

 いつの間にか、誰もがそんな音のことは、忘れた。

 三月の、あの日の出来事が、別の世界の出来事のように、忘れられた。

 僕は、波の音を聞くのも嫌になった。

 

 逃げれば逃げるだけ追いかけてくる怪物の夢をよく見た。

 その怪物のかたちはよく分からない。怪獣のように巨大な実体を持っているようで、深い霧のように先を見通せない粒の塊だったりする。夢の中の僕はただ走り回り、少しでも遠くへ逃げようとするしかなかった。

 震災の後、夏に、僕たち家族は故郷を離れることになった。父の決断を誰も否定しなかった。

 

 

 学校は嫌な場所だ。

 みすぼらしい正義が平気でまかり通る。言葉はいつだって暴力に変わる。頬を殴られた方がわかりやすくていい。誰かの言い分を信じる他の誰かがあっという間に群れになって、ときに無言の圧力になる。

 誰かのせいにするのは簡単だ。そいつのせいにして、責任を押しつけて。だけど、そんな責任なんてあいまいなものだ。いつだって損をする人間はあらかじめ決まっている。それをただ平々凡々としながら見ないでいる、見ないふりをしているだけのやつが、この世界にはたくさんいる。

 その呼び方、あだ名が最初、僕を指しているとは思わなかった。「ホーシャキン」。いつの間にか、その言葉にじわりと取り囲まれていた。

「ホーシャキン」。

 それが「放射」と「菌」をくっつけた言葉だと知ったとき、居心地の悪さよりも、何の意味もなさない、現実味のない組み合わせに笑いそうになった。だけど、笑っている場合ではなかった。

 「放射」が〈放射能〉を指しているのは明らかで、僕が福島県から自主避難して来たことを快く思わない奴が、「菌」って言葉を組み合わせて作った悪口だった。「ホーシャキン」は、「ホーシャゴミ」、「ホーシャノウマン」、「ノウキン」と変わり、クラスメイトの大半がいつの間にか僕に対して使っていた。男子だけではない。クラスで目立つタイプの女子は、楽しそうに、自分のグループの結束を誇示するように、僕を標的にした。

 

 震災の起こった年、小学校五年生の夏前に、親戚を頼って、福島のM市から引越す決意をしたのは父だった。

 生まれ故郷を後にすることに数カ月迷った末の決断だった。母もM市の生まれで、高校から大学、就職先まで県内だったから、福島以外のことは知らない。それは父も同じことで、S県に住む父の兄のクニヒコさんを頼りにしての移住だった。

 僕は地震と津波と原発事故の後、少なくなっていく友達の、空白の机を見つめながら、自分を包む、見えない大きな力に怯えていた。地面が揺れるから、大きな波が来るから、放射能に汚染されるから。そういう言葉に囲い込まれていく、漠然とした不安が胸の奥に巣食っていて、笑うことさえ面倒に思えることがあった。

 引越した先のS県の小学校は各学年二クラスずつの小さな学校だった。友達もすぐにできた。「がんばろう東北」という魔法の言葉を、僕は信じていた。

 中学校に入り、あっという間に時間は過ぎていった。

 三年生になり、受験前のクラス替えがあった。

 なんてことはない、いままで何度も経験してきたクラス替え。小学校からの友達も、世話になっている伯父の家の近所の友人も同じクラスになった。

 だけど、春先のオリエンテーションの班割りのとき、小さな亀裂が生じた。

 僕を仲間外れにするような言動をしたのはアイカワという、別の小学校から来た男子だった。成績も目立たず、運動が得意なわけでもない、いわゆる目立たないタイプだった。マンガクラブに所属し、ロボットのイラストを描いて文化祭に展示していたのを見たことがある。そんなアイカワが「サクライ君と同じ班は嫌だ」と、はっきりと言ったのだ。

 アイカワがそんな発言をするなんて思いもしなかった担任の男性教師は、理由を問いただした。彼は衆人環視の中、ぽつりと立たされ、発言を求められたけれど、何も言えないまま時間だけが流れた。

挿し絵

 やがて嘲笑の波が広がっていく。居心地が悪いのは僕も同じだった。

「ほら、分かったから、サクライに謝って、班決めを進めろ!」

 担任はその場を収めるべく、笑顔でアイカワの肩をぽんと叩いた。僕は、アイカワの視線を感じて凍りついた。何も解決していない。それどころか、彼の目からは明らかな敵意が読み取れた。

 でも、それは初めて感じる種類のものではなかった。

 自分の生まれ故郷が閉ざされた空気の中で疲弊していく。海産物も農産物も、市場から締め出されていく。安全か安全でないか、その択一的な答えだけが求められて、同じ国にいながら、疎外されてしまったような感覚。それどころか、溢れ出てくる、責任追及の言葉。それは明確な憎悪のかたちをなしているように僕には思えた。

 まだ福島にいた小学校五年生の頃、僕は世界の真中にありながら、その世界の中で見棄てられたような気分をあじわった。

 引越をし、あの孤立感から解放されたはずなのに、自分の影をアイカワに思いきり踏まれた気がした。

 そんなアイカワの「勇気」を受け取ったウエダが言い出したのが、「ホーシャキン」という言葉だった。

 僕の家族がM市からの自主避難民であることを言いふらし、放射能に汚染されているのだと決めつけた。ウエダは小学校のとき、いじめの前科があり、教師たちも心得ていた。けれど、「ホーシャキン」という言葉は教師の知らないところでじわりと広がっていった。

 それが「いじめ」なのだと明確に認識するまでの数日間、僕は「放射」と「菌」の不合理な組み合わせと、引越して来た自分とはもはや関係のない事柄を悪く言うクラスメイトの行為を余裕を持ってながめていた。

 ところが、それは疎外の暴力として僕を追いつめはじめた。オリエンテーションでは、小学校からの友達と同じグループになった。けれど、それ以降に行われた体育祭、文化祭では孤立した。

 担任の教師だって気がついていたはずだ。

 けれど、彼は助けてはくれない。期待するのも馬鹿らしくなった。

 どうして歯車はくるってしまったのだろう。

 そのくるいの原因をどこまで求めていけばいいのだろう。

 二〇世紀最後の年に生まれたこと、M市で育ったこと、友達もたくさんできたし、学校の勉強は面白くなかったけれど、通学するのは嫌ではなかった。大きな地震が起きたこと、それからしばらくして津波が襲ってきたこと、ゲンパツという、身近に存在し、社会見学でも訪れた、訳の分からない巨大な建造物が波にのまれたこと、国のために動いていた施設が厄介モノとなり、悪の象徴にされたこと。それは自分とはまったく、本当にまったく関係あることなのだろうか。関係のない、遠くの出来事ではないのだろうか。こうやってS県で、伯父家族を頼って新しい生活が始まったことも、歯車のズレの一部なのだろうか。

 僕はいくら考えても出るはずのない答えの周囲をぐるぐる回っている。そのせいで疲れ果て、授業にも集中できない。

 

 学校は嫌な場所だ。

 誰かを標的にして、自分の居場所を作り上げる。安定した場所からまったくの他人と化したそいつを眺めて、ほっと胸をなでおろす。そして、俺はそんなやつとは関係ないと心の中で考える。

 そんな場所になんで毎日、通わなければならないのか。

 学校は嫌な場所でしかない。

 

 

 引越しを無事に済ませた後の二〇一一年の記憶はほとんどない。環境に慣れようとして必死だったのかもしれないし、離れ離れになった友人たちを思って過ごしていたのかもしれない。

 中学校に入学し、部活に入っていない僕の日常は単調だった。

 三年生になるまでは、本当にあっという間だった。一学期が終わり、夏休みになれば本格的に受験勉強を始めなければならない。

 初夏の頃、父方の祖父が亡くなった。