ヒカリ指す(2)

(2020年11月5日 付)
作・北原岳(きたはら・がく)
1975年生まれ、栃木県出身。早稲田大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。愛知淑徳大学創造表現学部講師。名古屋市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 祖父の葬儀の席で、いまも地元に残る親戚の叔父さんが、震災の関連死だと言い張った。避難区域の設置に翻弄されて、結局居場所を見つけられないまま死んだのだと叔父さんは、怒りをあらわにした。

 僕たち家族は、避難区域の境界がじわりと広がって来るのを恐れた。だから父はS県で暮らす、兄のクニヒコ伯父さんを頼り、地元を後にすることを決めた。それを、六年前の祖父は咎めなかった。

 一緒に行こう、と父は祖父に何度も打診したのだと、後から聞いた。祖父はそんな話題が出る度、曖昧に返事をしていたのだと言う。「まあ、そのうちにな」とか、「後から追いかけるのもいいだろう」とか、「婆さんの意見も聞かなければなあ」といった具合に。

 だけど、祖父が祖母に相談するような性格ではないことを息子たちはよく知っていた。つまり、祖父は生まれ故郷の福島を、M市を捨てることなど―もちろん、一時的な避難だと父たちは何度も言ったのだけど、結局はそんなこと、考えもしなかったのだろう。

 

 祖父の葬儀のため、久しぶりにM市に帰った。

 S県から車で向かった。伯父夫婦といとこのエイミとリミ、父と母、それから僕。父たちが小さい頃の記憶をたくさん語った。元気な祖父の姿が浮かび上がるようだった。

 地方公務員として働き、退職後は趣味の渓流釣りに時間を割くという、父が言うところの、平凡な人生。それが祖父の足跡だった。

「カズヒコに連絡は……」運転席の伯父が言った。

 車内の空気が少し、凍りつく。だけど、誰かが勇気を出して言わなければならない話題だったのだろう、母が引き取って続けた。「そうね、カズヒコさんに連絡は……」

「誰かがしただろう」助手席の父があらい口調で言う。

「誰かっていっても……、御兄さんはしてらっしゃらないでしょう……?」母が伯父に尋ねた。

「言いようがないからなあ、連絡先も知らん」伯父が言った。

 

 カズヒコさんは、父たち五人兄弟の末っ子だ。長男のマチヒコさんは震災以前にすでに他界していた。心臓の病気だったという。次男のクニヒコ伯父はS県で仕事に就き、三男が父だった。四男のヨリヒコさんは福島県内の会津で仕事をしている。最近、ひとり目の女の子が生まれたという知らせが届いたばかりだった。

 それから少し歳の離れた五男のカズヒコさん。カズヒコさんは、中学を卒業すると東京に出て行ってしまった。家族、兄弟仲が悪かったわけではない。けれど、よくある話の通り、末っ子で甘やかされて育ったのだと兄弟誰もが口にする。

 それからもうひとつ、皆が絶対に許容できないことがあった。それはカズヒコさんが女性として生きようとしていることだった。

 友だちの女の子の服を借りて着ているのも幼い頃は可愛かった。だけど、小学校に上がってもカズヒコさんから女の子らしい部分は消えなかったし、友達からは「オカマ」と言っていじめられることもあったそうだ。

 カズヒコさんには一度だけ、マチヒコさんの葬儀のときに会ったことがある。女性の服装をした、当時二十歳くらいのカズヒコさんは、まだ小さかった僕から見たら、女性そのもので、親戚のオネエサンと何ら変わらなかった。

 その葬儀にカズヒコさんを呼んだのは祖母だった。

 誰にも相談なく決行されたカズヒコさんの帰郷は、兄弟喧嘩に発展した……らしい。

 おそらく眠気にたえられず、早々に床に就いてしまったのだろう。子どもは早く寝てしまった方が都合よかった。親の兄弟喧嘩なんて子どもが見るものではない。そういえば、あのとき、僕より四つ年上のエイミと、二つ年上のリミは、マチヒコさんの葬儀に来ていたのだろうか。思い出の中に、いとこの姿はなかった。

 カズヒコさんの記憶は、だからそのときの一回きりで、だけど、僕が彼を忘れられないのには理由があった。カズヒコさんは、僕の枕元に革製の財布を「御土産」として置いていってくれたのだ。

 翌朝、目を覚ますとすぐに枕元の財布に気がついた。母に見せると、それをカバンにこっそりしまった。

「これはお父さんたちには内緒。昨日来ていた、カズヒコさん、彼があなたにくれたのよ」

 よく分からなかった。カズヒコという男の名前に合致する人を思い出せない。

「あの、背の高いお姉さんみたいな……」母が言う。

 背の高いお姉さん、みたいな。

挿し絵

 それに合致する人が思い出された。あの人がカズヒコさん?

 母は多くを語らなかった。ただ、カズヒコさんが僕に財布をプレゼントしてくれたこと、それから中に千円札が三枚―当時、幼稚園生だった僕には理解できないほどの金額が入っていたことは、はっきりと覚えていた。

 

 カズヒコさんのことを少しだけ理解できたのは、授業中、英語のオオタノリコ先生が話してくれた「LGBT」という概念を知ったときだった。オオタノリコ先生は、いわゆる「人権派」の先生で、まだ若いけれど、シャカイウンドウというやつに参加するため、休日に東京へ足を運んだりして、クラスでは「あいつめんどくせえよな」と言う男子もいたけれど、僕は好きだった。

 彼女は話してくれた。自分の身体と心の一致を当たり前だと思っているかもしれないけれど、すべての人が一致しているわけではない。野球が得意だけどサッカーはできない。テニスは上手だけど器械体操は不得手だ。そういうことは当たり前すぎて誰も疑問に思わない。男子だから野球やサッカーをやりなさい。女子だからピアノを練習しましょう。男子だからとか女子だからとか、そういうのは、文化的なものでしかない。男子がピアノをやってもいいに決まってる。世の中には自分の身体と性別が一致しないで苦しんでいる人がいる。男の身体なのに、心は女の子。女の身体なのに、心は男の子。すぐに理解することは難しいけれど、あなたたちは知って理解するよう努めなければならない。「寛容」であることが大人になるうえでの重要なパスポートなのだ。オオタノリコ先生は言った。色々な個性をもった人が集まってくると、自分たちとは違う人たちが目についたりする。だけど誰かを追い出すのではなく「寛容」であること、自分とは違う人を認めること、それを君たちは大人になっても忘れないでほしい。

 「寛容」であること。排除なんてくだらないこと。

 ちょうど、「ホーシャキン」なんて呼ばれて、クラスから排除されかけていた僕には、けっこう響く授業だった。だけど、オオタノリコ先生の話を、半分以上の生徒は聞いていない。レズとかゲイとか、バイセクシャルとか、トランスセクシャルとか言われて、妙に興奮してバカみたいな声を上げるやつが何人かいて、そのときだけ授業は盛り上がったけど、結局、オオタノリコ先生の言葉は、クラスの大半の人間には届いていないようだった。

 だから、オオタノリコ先生の授業のおかげで、僕への「いじめ」がなくなった、なんてことはない。

 僕は彼女が板書した「寛容/Tolerance」と「不寛容/Intolerance」という文字はしっかりノートに記した。ずっと昔のアメリカの映画で―黒白映画とか言っていたけど、グリフィスとかいう映画監督がつくった「イントレランス」、人々が不寛容に他者を排斥するという、つまらなそうな映画のことも、ノートにメモっていた。

 

 カズヒコさんは祖父の葬儀にはやって来なかった。

 郵送されたという香典が式台の上に置かれていた。

 僕はあのとき見たカズヒコさんの姿を必死に思い出そうとしたけれど、細部がはっきりしなかった。

 祖父の葬儀はあっという間に終わった。

 幼い頃、海岸沿いを散歩したこと、将棋を教えてくれたけどすぐに僕が飽きてしまったこと、野球のバットの振り方を教えてくれたこと、色々な思い出が頭を巡ると、祖父の死が実感された。その度に、悲しさが深くなった。

 元気をなくした祖母を、伯父が引き取ると言った。祖母は頷かなかった。父が口を出した。母も、何とかS県に移り住むことを打診した。けれど、祖母は「死んだばかり、まだ早い」の一点張りで、祖父の遺影を見つめていた。

 葬儀の翌々日には僕たちはS県に戻ることになっていた。仮設住宅で生活する祖母と別れた。福島を後にすることがこんなに心に痛いとは思わなかった。

 

 

「はじめてのお使い」に母が選んだのは、カズヒコさん宅の訪問だった。

 新幹線を使わずとも二時間もあれば東京の目的地には着く。

 高円寺という駅で下りて、北口を進み、あとはスマホを頼りに進んで行けばよい。住所と、少し多めの交通費を渡されたのは、祖父の葬儀を終えてS県に戻った週の、土曜日の朝だった。

 行かないとか、行けないとか、そういう問題はすでに母の中にはない。ただ「行く」という選択肢があるだけだった。

 その日、父は朝から不在だった。カズヒコさんのところに行くなんてことを彼が許すはずもなかったので好都合だった。