ヒカリ指す(3)

(2020年11月6日 付)
作・北原岳(きたはら・がく)
1975年生まれ、栃木県出身。早稲田大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。愛知淑徳大学創造表現学部講師。名古屋市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 祖父の葬儀の香典返しを早く渡してあげたい。そして葬儀のことを聞かせてあげたい。母はそう考えていた。

 実父の葬儀に参列できないことで、カズヒコさんが被った心の痛みを少しだけ想像できた。葬儀の様子や残された祖母のこと、仮設住宅や避難区域のことなど、会って伝えるべきことがたくさんあった。だから香典返しを郵送すれば済む問題ではなかったのだ。

 それは理解できる。

 でも、それで僕が「はじめてのお使い」にかりだされる理由にはならない。大学生のエイミでも、高校生のリミでもいい。彼女たちの方が適任だと思えるけれど、そんな言い分が通るわけもなく、僕はF駅に車で送られ、電車に乗った。

 

 秋葉原駅で総武線に乗り換え、高円寺駅で下車した。

 北口に出ると、お祭りのときのように人がたくさんいた。スマホの地図案内を使い、商店街を抜けて行く。本屋や古着屋、ケーキ屋や定食屋、焼き鳥屋などが並んでいる。

 大きな通りを渡ると、急に静かな住宅街になった。路地を曲がり、しばらく行くと、スマホが目的地を告げた。

 エミールという五階建てのマンション。カズヒコさんはその501号室に住んでいる。

 エレベーターは使わず階段をのぼる。途中でインド人と思われる家族とすれちがった。彼らは笑顔で「こんにちは」と言った。僕は、遅れて「コンニチハ」と言った。

 五階の部屋の前で深呼吸する。

 電車の中でずっとシミュレーションしてきたとおりに、自己紹介をし、祖父のことを伝え、香典返しを届けに来たことを告げる。部屋に招かれたら、礼儀正しく、靴をそろえて上がる。自分からはあまり話をするべきではない。カズヒコさんをじろじろ見てもいけない。やがて彼が話を切りだすのを待つ。もしかしたら飲み物を出されるかもしれない。ありがとうございます、と噛まずに言わなければならない。緊張するわけがない。なぜなら僕はカズヒコさんの親戚なのだ。甥なのだ。何も臆することはない。ただ、堂々と振る舞えばいい。

 ドアホンに手を伸ばそうとすると、不意にドアが開いた。

「……何だ、お前?」

 ドアを開けたのは、無精髭をはやした――僕のそのときの見立てでは三十歳くらいの、男だった。

「お前……誰?」男は続けた。

「あ、あの、こちらはサクライカズヒコさんのお部屋、ですか?」僕は尋ねた。

「カズヒコ?」

「サクライカズヒコさんの……」

 しばらくの沈黙の後、男は「ああ、ヒカリね」そう言った。

「ヒカリ……?」僕は静かに呟いたつもりだったけれど、思いのほか大きな声になっていたらしい。

「そのカズヒコって、ヒカリだろう? それで、君は誰?」

 男の言い方が「お前」から「君」に変わったので少しほっとした。

「あの、親戚の、カズヒコさんの、ええと、その僕は甥になるのですが……」

「……よく分からないけど、とりあえず、親戚なの? まあいいや、上がりなよ、外、暑いし」

 僕は男―タカヤさんに誘われるままに部屋に入った。シミュレーションした通りに礼儀正しく、靴をそろえる。玄関には、女性用の靴が並んでいる。サイズは、母やエイミやリミのよりもぜんぜんでかかった。

「俺はタカヤ。ヒカリの同居人。君は?」

「はい、ええとカズヒコさんの甥の、サクライタケルといいます。今日は、あの……」そう言って香典返しを出そうとしたけど、タカヤさんに渡すのも違う気がして、迷った。

「いいから座りなよ、そこ」

 タカヤさんがテーブルを指さした。それから冷蔵庫から缶ビールとウーロン茶を持ってきた。

「どっちがいい?」

「……あの、ビールは、僕は」

「苦手なの?」

「まだ飲めないんです、中学生なので」

「へえ、若いと思ったけど、中学生か。そりゃ飲めないね」タカヤさんはそう言って笑った。

「ヒカリ、いま買い物に行ってる。今日、店の仲間が来て、騒ぐみたい」

 タカヤさんは缶ビールをグイグイ飲んだ。

挿し絵

 やがて沈黙が始まった。テレビからはがやがやした話し声が聞こえてくる。タカヤさんはテーブルの上の雑誌を何となくめくっている。二缶目のビールは、今度は少しずつ飲んでいる。

「あの……」僕は言った。

「何?」

「ヒカリさんは、その……、カズヒコさんなんですか?」

「カズヒコってのがあんまりぴんと来ないけどさ。とりあえず、そうだと思うよ」

 ハンガーにかけられた女性用の服が目に入った。きれいに整理された室内からは清潔な印象を受けた。白い壁には木製の時計が架けられていて、もうすぐ一時を告げようとしていた。

 

 ヒカリさんは、訝しそうに僕を眺めてから、状況を理解すると、急に笑顔になり「タケルー」と言いながら僕を抱きしめた。香水の、いままでかいだことがないきつい香りが鼻の奥まで侵入してきた。僕は、どうしていいか分からず、両腕をただぶら下げていた。

 すると、近くにいたタカヤさんが僕の腕を取って、ヒカリさんの背中に廻した。

「どれくらいぶりかしら、あんたがまだ……」

「きっと幼稚園のころだと思います。マチヒコ伯父さんのお葬式のときに」

「ずいぶん前ね。大きくなるわけね」

「あの、これ……」僕はカバンから、あのとき貰った革の財布を取りだして「ありがとうございました」と、時空を超えて言った。

「あら……。なんだっけ、それ?」

 ヒカリさんは僕に何かあげたことは覚えていたけれど、それがいま目の前にある少し古びた財布だということは忘れていた。甥と姪、全員分を用意したのに、結局、あの日会えたのは僕だけだったとヒカリさんは言った。

「家族なのに渡すのも失礼かもしれないけど、と母が言っていたんですが……」

 僕はそう前置きしてから、祖父の香典返しをヒカリさんに手渡した。

「わざわざこれを届けさせるなんて、律儀な人ね」ヒカリさんはそう言って笑った。「あんたのお母さんくらいね、あたしを家族だなんて言ってくれるのは」

 僕は、それまで、目の前にいる人を、どう理解していたのだろう。カズヒコさんではなく、ヒカリさん。僕の叔父さんだけど、女性の服を着ている。僕が生まれた頃、故郷を出て東京で暮らしてきたヒカリさん。

「ヒカリー、なんかこれ、足りないんだけど」

 ソファに座っていたタカヤさんが言う。彼は目の前のテーブルで、ジグソーパズルを組み合わせていた。数ヵ所に虫食いがあり、手元のピースでは足りないらしく、完成できないのだと訴えている。

「知らないわよ。だいたいそこまでやったのあたしなんだけど」ヒカリさんが言う。

 よく見ると、部屋の隅にはパズルの箱がいくつも積んである。箱の側面には日本の城やどこか海外の古城の写真がプリントされていた。いまタカヤさんが取り組んでいるのは、会津若松城だった。

「ジグソーパズル、好きなんですか?」

「バラバラのものが組み合わさって何かのかたちになるのが好きなの。それに、暇つぶしには役立つでしょう」ヒカリさんは言った。

 それから、僕は、祖父の葬儀の様子を話した。福島の、M市の景色を、以前と変わってしまった空気感を、それでも着実に再生している現状を、一方的に話した。その間、ヒカリさんは静かにうなずき聞いていた。

「あたしには関係ないけどね」聞き終えると、ヒカリさんはそう言った。

 怒っているような、寂しそうな、そんな表情を浮かべていた。

 

 

 夕方の電車に乗るのは無理だった。

 ヒカリさんの部屋に集まった二人の同僚―ヒカリさんは、新宿にあるバーで働いていて、その日は仕事のシフトというやつを無理してやりくりし、二人の同僚が集まるらしい。

 彼女たちは玄関で豪快に靴を脱ぎ、リビングに押し寄せると、ヒカリさんを抱きしめた。僕はダイニングチェアに腰かけて、茫然とその様子を眺めていた。

―タケルにも関係がある会だから。

 夕方、帰ろうとする僕をヒカリさんが引きとめた。ほとんど初対面といってもいい、叔父と甥の間にどんな関係があるというのか。だけど、振り切る術を知らない僕は、タカヤさんにも促され、居残ることになった。

 ヒカリさんはキッチンで支度をしている。やがてダイニングテーブルに並んだのは、スーパーで買ってきた大量のサラダ、ちくわ入りの焼きそば、唐揚げと焼き鳥、薄っぺらなピザが四枚、袋のままのシリアルと、冷奴、枝豆だった。

 それからワインと缶ビールが用意された。