ヒカリ指す(10)

(2020年11月14日 付)
作・北原岳(きたはら・がく)
1975年生まれ、栃木県出身。早稲田大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。愛知淑徳大学創造表現学部講師。名古屋市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 

10

 

 ヒカリさんは離婚届にサインをしながらも、返信封筒は投函できずにいた。

 一週間が過ぎると、ヒカリさんがこそこそと電話している回数が増えた。リツコさんからの離婚届の催促電話だとタカヤさんは言った。

 ヒカリさんはまったく沈黙した。

 すると、土曜日の午後のスケジュールを空けておくようにとヒカリさんに言われた。リツコさんと娘のハルが、東京にやって来る。その迎えに、空港に一緒について来いという指令だった。

 

 土曜日の午後一時十五分、予定通りに飛行機は到着した。ヒカリさんは緊張していた。

 しばらくすると到着口から現れた母娘にヒカリさんが吸い寄せられていった。リツコさんが立ち止まり、少し複雑な表情で手を振った。手を引かれていた娘のハルは黄色い帽子をかぶっており、空港の人ごみに圧倒されながら、好奇心をむき出しにしているのが分かる。

 短い立ち話の後、空港にあるカフェに入った。ヒカリさんは僕を甥だと言って紹介した。女性のまま、女性としてリツコさんを前にするヒカリさんは言葉数が少なく、娘のハルにしきりに視線を送っている。

 ハルは目の前に座るヒカリさんを、父親だとは知らない。ハルには生後すぐに別れた父の記憶はないのだ。リツコさんは、娘に父親と会わせるのではなく、「ヒカリ」という人生を歩んでいる人間を見せたかった。だから女性として空港に迎えに来てほしい、とリツコさんはヒカリさんに伝えていたのだ。

 僕はリツコさんと、当たり障りのない世間話をした。学校のこと、一緒に暮らしていること、被災した福島のこと、親戚としての関係など。

 ときどきリツコさんは遠い目をした。自分の選択に後悔しているのか、サクライカズヒコを憎んでいるのか、僕には分からない。

「大きくなったでしょう、ハル。……赤ちゃんのころの記憶しかないよね」

「リツコがたまに写メ送ってくれたでしょ。ちゃんと保存してるよ」

「かわいいでしょ、ハル」

「うん。本当にありがとう、会わせてくれて」ヒカリさんはゆっくりとそう言った。

 ハルはオレンジジュースを少しずつ飲んでいる。彼女が大きくなったとき、この場面の記憶は残っているだろうか。ヒカリさんが「ハル」と呼びかけた。

「なーに?」

「こっち来て。抱っこさせてくれる?」

「うん、いいよ」そう言うと、何の迷いもなくハルは椅子を下りて駆け出した。ヒカリさんは娘を抱きしめながら、その体温を、ぬくもりを忘れないように身体中に記憶しているのだと思う。

 ヒカリさんは離婚届の入った封筒をリツコさんに手渡した。

「……これで、やっと終われる。ちょっとずつだけど、先に進んでいくわ、私もハルも……」

「ゴメンね。ずっと先送りにしてきて……」ヒカリさんが言う。

「でもね、つらいことだけじゃない。何か、ハルにいま教えられた気がする」リツコさんがハルを見つめる。「この子、あんなに強くあなたにしがみついて……。終わったのは夫婦のかたちだけなのかもしれないね」リツコさんが言った。

「……本当にありがとう、来てくれて。ハルに会わせてくれて」ヒカリさんは涙をこらえながらそう言った。

 

 母娘は今日と明日、東京を観光してから沖縄に帰る。月曜日、書類が提出されて正式にヒカリさんとリツコさんは離婚することになるのだろう。

 二人の去ったカフェで、無言のまま時間を過ごした。二十分ほどしたとき、ヒカリさんが「よし!」と言った。

「タケル、ありがとう。面倒な場面につきあわせて」

「……ヒカリさん」僕は色々なことを言いたかった。僕がそうしてもらったように、彼女に何か力になる言葉をかけたかった。でも頭に浮かぶのは「がんばりましょう」とか「応援しています」とかありきたりの言葉ばかりだった。

「あんたがいてくれなかったら、あたしここから帰れなかった」ヒカリさんは言った。

 僕はヒカリさんの役に立てたことが素直に嬉しかった。

 

 ヒカリさんの沈黙の正体のぜんぶは分からない。

 それは彼女が送って来た時間のあらゆるところに見え隠れしている。

挿し絵

 でも、その一部は分かった気がする。離婚すること。

 その葛藤がヒカリさんに重くのしかかっていたのだと思う。別々に暮らしてから五年近い時間が流れても、離婚の申し出を受け入れられなかった「夫」と、その夫を前にして優しくあろうとした「妻」の姿が僕の印象に強く残った。

 もし離婚がヒカリさんにとってどうでもいいことなら、彼女はどんどん先に進んでいけたはずだ。どうでもよくないことをどうすることもできない自分の無力さとか、生き方とか、そういうことが絡まって、ヒカリさんは悩んでいた。だからそんな簡単に離婚に踏み切れなかったのだと僕は思う。

 

 部屋に戻ると、タカヤさんが宴会の準備をしていた。

 離婚式と書かれた手書きのパネルがテーブルの上に置いてあり、それを見つけたヒカリさんが「バカヤロウ」と笑いながら怒鳴り散らした。夕方のスーパーで買いそろえたらしい惣菜が、皿に盛られている。缶ビールと焼酎と、それから僕専用のコーラのペットボトル。

「それじゃ、ヒカリの新しい出発と、リツコさんとハルちゃんの将来にたくさんの幸せが巡ってくることを祈念して、かんぱーい!」

 僕は泡のはじけるコーラのグラスをかかげた。三つのグラスが小さく重なった。

 僕は昼間、父から届いたラインの文章を二人に伝えた。引越し先の見当がついたこと、日程は八月の末になること、部屋はここの隣駅になるだろうということ、それから「弟」と「同居人」への感謝の文面。

「もう少し、ここに住んでてもいいのに。ってか隣の駅ならここでいいだろう」タカヤさんが笑う。

 ヒカリさんは、そう遠くない日に僕がここから旅立つことが寂しい、と言った。僕には意外な言葉だった。ふと、タカヤさんが言っていた「生き直し」という言葉が巡った。

「性同一性障害とか、自分への不安とか、色々あって、あたしはホントの自分になりたいって思うんだけどね……。でも、いまのあたしが、ホントのあたしじゃないなんて、ぜんぜん言えない気もする。でもね、どっか中途半端だった。離婚しなかったのもそうだし、ハルの親、気取ってるのもそうだよね。どっかで繋がってたいって思いがあって、でも、それってぜんぶがぜんぶ、弱さってわけじゃないよね。もしそうだったら誰も生きていけないよ。でもホントはそういうのに甘えてちゃいけなくて、自分から断ち切って、違う景色を見つけなくちゃいけないんだって思うし、なんだか最近、そうするための勇気もわいてきた」ヒカリさんは言葉を選ぶようにゆっくりと話した。

 ヒカリさんは自分の性別と葛藤しながら、結婚と離婚をして、女性として生きていくのだと思う。僕にはそれが彼女の宣言のように聞こえた。

「まだまだ旅は続いていくんだし」そう言ってヒカリさんは焼酎の入ったグラスを空にした。

 やがて来る引越しの日、僕は泣くかもしれない。たったひと駅、隣に行くだけなのに。二人にはまた会えるとしても、僕が強くなれたこの場所と時間は戻ってこない。

「お前はさらに強くならなければならないんだ」タカヤさんは力強く言った。

「自分が進んでいく方向が分かったなら、自分に責任を持ってもっと強くなって進んで行くのよ」ヒカリさんはやさしく言った。僕の進んで行く、その未来を指し示してくれたのはヒカリさんだ。

 いつものように、やがて飲み過ぎてだらしなくソファに横になる二人に、僕はタオルケットをかけた。

 

***

 

 自分らしく生きることは簡単ではない。それは自分に関するあらゆることに責任を果たすことだ。利益だけではない、不利益なことに関しても。それから僕自身に原因がないことでも、僕に関わってくるなら、僕は対峙しなければならない。それが難しかったならたまには「逃げて」もいい。

 僕は高校のクラスメイトとの会話の中にきっかけがあるなら、話そうと思う。自分が福島から自主避難してS県に引越したということ、被災者であるということ、それから放射能汚染地域に指定された場所のすぐ近くで生活していたこと。伝えるのは本当はまだ恐いけれど。

 でも、もっともっとたくさんのことを僕は友達に言わなければならない。

 美しい海岸線、山々の緑、自然からたくさんの恵みを受けて育ったこと。波の音は、本当は嫌いになんかなれない。そこには祖父や家族との記憶があるから。

 僕は少しは強くなれたと思う。コンパスはまだどこも指し示していないような気もする。本当は不安なことの方がずっとずっと多い。でも思う。僕は大丈夫。僕は絶対に大丈夫。

 〈終わり〉