賽銭泥棒(3)

(2020年11月17日 付)
作・荒川眞人(あらかわ・まひと)
1955年名古屋市生まれ。2008年住友生命情報誌ショートコンクール優秀賞、16年四日市文芸賞エッセイ部門奨励賞、17年同小説部門奨励賞。三重県四日市市住。
絵・斎藤昇(さいとう・のぼる)
1946年秋田市生まれ。岩手大特設美術専攻科修了。87年度県芸術選奨。90年自由美術展平和賞。95年安井賞展出品。自由美術協会会員。秋田市住。

 弥平治は長椅子でくつろぐと、昨日の諏訪神社から水澤屋までのことを考えた。偶然出会った小さな女の子を、母親は確かおとしと呼んでいた。

 諏訪神社で大福もちをあげたら、てっきり家に帰ったと思ったのはうかつだった。賽銭箱に覆いかぶさっているその背中を見られてしまった。おとしの口から、弥平治が賽銭泥棒をしていたと、流れないことを祈るばかりだ。

 気になったことはそればかりじゃない。おとしの腕の赤い傷のことである。弥平治は、おとしに、こんなに暗くなるまで遊んでいたらいけない、早く家に帰りなと言った。すると、おとしは返事をせずに、今にも泣きそうな顔になった。

 何か訳がありそうであった。今度はしゃがんで、おとしと同じような目線になって、あらためて優しい口調で聞いた。

「どうしたんだい? 家に帰りたくないのかい?」

 弥平治のその言葉が合図になったのか、おとしは溜めていた感情を爆発させたかのように声を上げて泣き出した。

 泣き声が薄暗い境内に響いた。弥平治は慌てた。宮司たちが声を聞きつけて出てきたら面倒だ。なにしろ、途中でやめたが、賽銭泥棒をしようとしていたのだから。

「泣かない、泣かない」

 弥平治はおとしの頭を撫ぜてあやした。しゃくり上げながらも、おとしは大声で泣くのだけはこらえた。

「おいちゃんが家まで送ってあげよう。さぁさぁ」

 空にはもう月が顔をのぞかせていた。一人で境内にいる事情は道すがら聞くとして、早く家に送り届けたほうがよい。

 弥平治はおとしを連れて家へ向かった。道順はおとしの言葉に従って行くしかないので、なかなか家までたどり着かない。家である水澤屋にたどり着いたのは、四半刻(三十分)ほど歩いてからだった。

 その間、腕についている痣(あざ)のことを聞いてみたが、やったのは、遊び仲間でも年上の子どもでもないという。誰かを言わないので、しつっこく聞くと、また黙り込んでしまった。

 話を変えて家族のことを聞くと、父親のほうはすでに死んでいるという。その時のおとしはひどくしょげていた。

 一方で母親のことを聞いた時は驚いた。

 おとしは、いきなり顔を歪めると、ひきつけを起こしたように身体を強張らせた。

 弥平治はその時、もしかして、おとしは母親が怖くて家に帰りたくないのかもしれないと思ったりもした。

 東海道の茶屋の長椅子に座ったまま、弥平治は、整った容姿を持つ、おとしの母親のことも思い浮かべてみた。

 茶問屋である水澤屋の戸口で、短い時間だが会話を交わした。夜になっており、暗い通りでの立ち話であった。

 母親の顔は、少々きつめであるが、人形のように美しかった。おとしを送り届けた礼に、弥平治に天ぷらをくれた。母親とおとしの関係はさておいて、一人住まいの裏店に帰ると、弥平治はそれを美味しく食った。娘を家まで送り届けた礼に天ぷらをくれるとは、悪い母親ではないような気もした。

 東海道にひとしきり激しく風が吹いた。長椅子に座る弥平治の脚に、掃除の道具もろとも、道端のごみ屑が絡まってきた。

 弥平治は、茶屋の主人に礼を言って店を出た。あとひと踏ん張り、東海道の清掃をしよう、と己に鞭打った。

 

 竈(かまど)にかけた釜の中で米が炊ける音がする。おみよは、青物を刻みながら、格子窓から前の通りを見た。すでに薄暗くなっていた。

 おとしのことを、考えるだけで苛立ってくる。

 昨日は、帰りが遅いだけではなく、どこの馬の骨とも分からない男を家まで連れてきた。

 裏店の住人ならいざ知らず、水澤屋のように表通りに店を出す老舗問屋の娘が、知らない男にくっついてくるなんてことは、恥以外の何物でもない。この日もおとしの帰りは遅い。帰ってきたら、昨日以上に厳しくしつけようと考えていた。

 娘のおとしのことを憎らしく思うその一方で、塩問屋の英輔のことを考えると、炊事をする手が止まった。つき合うことで悩みもあるが、喜びのほうが勝る。

 英輔には女房はいるが、子どもはいない。ちょうど三十を超えたところで男盛りであり、もとより女房だけでは物足らず、岡場所に入り浸っていたと聞く。

 昨日の昼下がりのことである。

 待合茶屋で枕を交わした後、おみよは姿見に向かって、鏡に映る英輔に聞いた。

挿し絵

「英輔さん。あんた奥さんがいらっしゃるけど、あたしとこうなる前は岡場所に通い詰めていたのでしょう」

 英輔は布団に寝転んだまま煙管をくわえている。

「ああ、そんなこともあったな。だがよ、おめぇとこうなってからは行ってねぇ。岡場所の女と仲良くする気にならねぇ」

「そう。嬉しいわ。あたしはあんたとずうっと一緒にいたいわ。あんたと違って、あたしのほうは亭主もいないし、独り身よ」

「そうさな。亭主が死んでから三か月では、間がないともいえるが、しばらくすりゃあ、俺とこうしていても周りから咎められることはないわな」

「そうかしら?」

「えっ? 何か問題でもあんのかい?」

「あんたの奥さんのことよ」

 おみよは姿見に映った英輔の顔を見る。もとより男にしては色白だ。妻のことを出した途端、その顔から血の気が失せ青白くなった。

「どうってことないさ。女房は女房さな」

「そうかしら? あんたの奥さんは、今だって、以前のように岡場所の女と遊んでいると思っているのでしょうが、あたしはこう見えても茶問屋の女将よ。そのあたしと、こうして懇(ねんご)ろになっていることを知られたら、これまでのようにいかないわよ」

「そんなこたぁ、考えたこともない」

 おみよは、むっとなった。

「考えてよ。奥さんはきっと、あたしのことを許さないわ。別れろと言うわ。その時には、奥さんかあたしのどちらを取るの?」

 すると英輔は困ったようにおみよに背を向けた。

 そこまでが、昨日交わした英輔とのやりとりであった。英輔のことを、こんな風に困らせてやることでも、おみよの身体がじんわりと熱くなるのだ。

 最初、英輔とつき合いだしたころは、亭主が生きていたこともあり、気持ちを抑えるところがあった。死んでからというもの、箍(たが)が外れたように、英輔のことばかりで頭がいっぱいになった。明けても暮れても、英輔のことを考えてしまう。

 おみよの顔に、釜から噴き出した熱い湯気がかすめた。飯が炊き上がる時の香がする。

 しかし、おとしはいつ帰って来るのだ?

 

 間もなく旅籠や茶屋では明かりがともる時刻となる。弥平治は清掃を切り上げると、その足で諏訪神社へ向かった。

 人さまのことには関わらないほうがいいと思いながらも、おとしという子どものことが気になった。泣いている姿も、腕についた傷痕も弥平治の胸をえぐった。

 弥平治は、神社の入り口から薄暗い境内へと入った。まさか、昨日の今日と、二日続けておとしが一人で境内にいやしないとは思うが……。

 宮司たちはすでに仕事を済ませた後で、人の姿はない。

 社殿のほうへと進むと、その傍らにそびえ立つ一本の杉の大木がある。おやっと思って目を凝らすと、木の陰にうずくまっている子どもの姿があった。小さな子どもが、こちらに背中を見せるようにして、大木の隆起した根っこに座っている。

 昨晩、水澤屋まで送り届けたおとしだった。

「おじょう」そう呼んで、おとしの元へ歩み寄った。

 うつむいて、何か一生懸命に手を動かしている。その手元を見ると、大きな蚯蚓(みみず)がいた。

 なかなかお目にかかれないほどの大きなものだ。半分に胴体が切られていて、それぞれがくねくねと動いている。おとしが手にした木の棒で切り裂いたのだ。

 おとしは弥平治が来たのに気づいていないのか、振り向くことなく、蚯蚓の身体を切断した。

「おじょう。おいちゃんだよ」

 もう一度呼びかけると、ようやくおとしは弥平治のほうを見上げた。そのおとしの頬には、薄暗がりでも分かるような、赤いみみず腫れが何本も走っていた。

 弥平治を見るなり、おとしの小さな目が揺れると、みるみる涙があふれてきた。

 膝を折り、涙で濡れるおとしの高さになると、

「おじょう。もう、蚯蚓を切り裂くのはやめな。そいつにだって命があるんだよ。痛がっているぜ」話しかけた。

 おとしはうぉんうぉんと声を上げて泣いた。その腕や足も、昨日より傷がひどくなっている。

 弥平治の、これまで母親に向けていた疑いは、確信に変わっていた。

 昨晩、水澤屋の店先で会ったおとしの母親は、人のよい女将を振る舞っていたが、今となっては、不自然に映った。おとしが家の座敷に駆け込むのを見た時の、異常に鋭い目つきを思い出す。

 おとしの傷は、昨晩、母親に鞭(むち)のようなものでせっかんを受けたものに違いない。

 そんなおとしの行き着くところといったら、自分を隠してくれる大きな木がある、諏訪神社なのだ。おとしは怖くて、いつまでも家へ帰ることができなくて、この大木の陰に身を潜めているのだ。