賽銭泥棒(6)

(2020年11月20日 付)
作・荒川眞人(あらかわ・まひと)
1955年名古屋市生まれ。2008年住友生命情報誌ショートコンクール優秀賞、16年四日市文芸賞エッセイ部門奨励賞、17年同小説部門奨励賞。三重県四日市市住。
絵・斎藤昇(さいとう・のぼる)
1946年秋田市生まれ。岩手大特設美術専攻科修了。87年度県芸術選奨。90年自由美術展平和賞。95年安井賞展出品。自由美術協会会員。秋田市住。

 「おとし!」おみよは奥の座敷のほうへ向かって大声を出した。

 おとしの返事はない。

 初秋の日暮れは早く、すでに暗くなろうというのに、おとしは、出て行ったきり帰って来ない。

「どこへ行ったんだ。あの子は! どうしようもない屑のような子だね!」おみよは聞く相手もいないのに怒鳴った。

 おみよはおとしに手を上げるたびにいつも思う。

「ごめんなさい。ごめんなさい」と言うが、この子は何を謝っているのだろう。

 何も悪いことなどしていないのに、自分が間違っていると思っている。少し帰りが遅くなったとしてもそれがどうだというのだ。

 竹の鞭で打たれたりしなければならない理由などない。

 おとしは何度も謝る。おみよからしたら、おとしが謝ったところで同じことだ。それも分からないなんて。だから、この子は馬鹿だというのだ。

 おみよは、野良犬か野良猫を叩くように、おとしの身体に竹の鞭を入れた。

 静まり返った店の中で、おみよは帳場机を激しく平手で打った。ぱん!と音が周りの障子、襖を震わせた。

 

 行灯の明かりの下で、おとしは寝息を立てている。弥平治の半纏(はんてん)を布団代わりに掛けてある。弥平治が住む裏店もとうにどっぷり夜の闇に浸っていた。

 おとしの歳の四つといえば、いろんなことに興味を示す年頃である。先ほどまで、弥平治相手に楽しそうに遊んでいた。座敷に放り投げてあった団扇で遊んだかと思うと、畳に火打ち石を転がして玩具代わりにもした。

 弥平治が明かりをつけようと、火打ち石を手にした時、

「おいちゃん。わたしにもやらせて」

 と、おとしは小さな手を伸ばし、飛びついてきた。

 やったことがあるのかと聞くと、ないと答える。

 難しいぞといっても、それでもせがむので、火打ち金と火打ち石の持ち方を教えてやった。

 非力な上に、初めてのことで、当然のことながら藻草(もぐさ)に火が飛ばない。最後には、「できない。おいちゃん、やってよ」と放り投げてしまった。

 そうら見たことかと思ったが、子どものやることがおかしくて仕方がなかった。結局は、弥平治が行灯に火をつけた。

 遊んで疲れたのか、おとしはその後、横になって寝息を立て始めた。寝顔を見ていると、なぜこんな愛すべき子どもが苦しめられなければならないのかと、この世の理不尽さを嘆きたくなる。

 この子をどうしたらよいか? 

 おとしの目を覚まさせて、母親がいる水澤屋に帰すのが筋だが、その後のことを考えてしまう。

 母親にこれまで以上に厳しくせっかんされるだろう――。

 そのうち、昼間の東海道の清掃の疲れが出てきて、弥平治のほうも胡坐をかいたまま船をこぎ始めた。

 行灯だけの部屋は薄暗い。弥平治はぼんやりした頭で夢を見た。

 おとしの傍らに、影のように母親が座っていた。眠るおとしに、起きなさいと言っている。苛立っている。眼を覚まさないおとしに、色白で整った母親の顔がみるみる歪んできた。

 袖から出た、その腕は白くすらりと伸びている。その美しい肌に、血管が青く浮き出た。ついにはその顔は夜叉のようにおぞましいものになった。

 弥平治が息をのむと、両腕が狂ったように動いた。母親は襟元から短刀を抜き出すと、その切っ先をおとしの胸へと振り下ろした。

「やめろ! おじょうを殺してはいけない!」

 弥平治は叫ぶと、自らの背中で母親の短刀を受けようと、眠るおとしに覆いかぶさった。

 おとしは、それまで気持ちよく眠っていたところ、上から急に弥平治の身体の重みを感じ、驚きで眼をさました。

 目の真ん前には、これまで一緒にいてくれた弥平治という、おいちゃんの顔が見えたはずだ。それを、どうやらおとしは自分の死んだ父親と勘違いしたようだ。

「おとっつぁん……」

 そう寝ぼけ目で答えると、弥平治の顔をしばらく眺めた後、また眠りについた。父親に見守られていることで安心したのか……。

 弥平治のほうも、おとしの声でおみよの夢想から逃れた。

 座ったまま、肩で息をしていた。

 目の前では安らかに眠るおとしの寝顔があった。

 弥平治は、おとしの父親がこの世にはいないことは、おとし本人からも聞いたが、他からも聞いていた。

挿し絵

 おとしを水澤屋の前まで二度目に届けたそのあくる日、弥平治は気になって、同じ通りにある古手物の使用人の女をつかまえて聞いてみたのだ。袖の下として、女には饅頭を手渡した。

 女の話によると、水澤屋のおみよは、歳の離れた亭主を、少し前に労咳で亡くし、今では女将となり、店を切り盛りしているという。子どもは、四つになる娘が一人いる。

 聞き捨てならない話も聞かせてくれた。

 娘のおとしは、どうやらおみよの本当の子どもではないらしい。

 おみよと亭主が一緒になっても、一向に子どもができる様子がなかった。ところが驚いたことに、おみよの腹が膨らみもしないのに、ある日突然、水澤屋に赤ん坊の家族ができたというのだ。

 周りのものたちの好奇の的となったが、おみよのほうがやつれた顔をして気の毒だったので、深くは聞かないことにしたという。

 その後、亭主は病で長い間伏せ、早くこの世を去ることになるが、母子の関係はうまくいっていないようで、店先でおとしのことをきつく叱っているおみよの姿をよく見掛けるという。

 そんなことを古手物の使用人の女から聞いた。

 弥平治は、おとしの寝顔を見ながら、泣いている自分に気がついた。

 

 

 おみよはすでに寝支度をしていた。

 亭主が死んだ後は、おとし一人だけで上の階で寝るようになっていた。その二階は、五つ半(午後九時)を回るというのに、人気のないまま静まり返っていた。おとしは帰ってこない。

 以前にも出て行ったきりなので放っておいた。すると、次の朝に引き戸を開けると、おとしが店の前で小さくうずくまっていた。

 おとしは、死んだ亭主の言うことはよく聞いたが、おみよの言葉は聞かなかった。おみよの前から逃げようとするばかりだ。

 そんなおとしに、言うことを聞くようにと、竹の鞭を使うようになった。鞭で叩いて痛さを味わわせることで、おとしに物事を分からせることができる。

 おみよは、周りの目がなかったら、とっくにおとしを遠くに捨ててきているだろう。それができないから、おとしはこうしてこの家にいる。

 瞼が重くなってきた。おみよは敷いた布団にもぐり込むと、眠りの中に吸い込まれていった。

 眠りについたおみよに、今度は夢の中で、英輔の身体がうごめいた。十七で、死んだ亭主の嫁になってから七年間というもの、贅肉ででこぼこした中年男の身体しか知らなかった。

 それが半年前から、英輔の身体といったらどうだ。ほっそりしてきれいだった。おみよにこれまでになかった快楽を味わわせてくれた。毎日でもその身体に抱かれたいと思った。

 喜びの中に埋もれていこうとすると、おみよの耳にいつもと違った音が届いた。

 何か擦れたような音であった。戸口がきしんだのかもしれない。いずれにせよ、風の音ではなかった。すぅっと潮が引くように眠りから引き戻された。

 こんなに気持ちがよいのに何だ、と思った。

「おとしかい?」

 帰ってくるのなら、明日の朝にしておくれ、と思いながら布団から出ると、土間に下りて下駄をつっかけた。すると戸口の隙間から白い紙が顔をのぞかせていた。

 誰かが通りから、差し込んだようだ。

「誰かいるのかい?」

 恐る恐る戸を隔てて聞いてみた。通りからの返事はなかった。耳を戸につけてみても、戸を挟んで、表に人のいる気配はない。おみよは、そっとじゃばらになった紙を抜き取った。

 その後、思い切って戸を開けてみたが、店の前の通りは、人っ子一人いなかった。おみよは戸締まりをすると座敷に戻った。

 いったん消した行灯を再びつけ、じゃばらになった紙を広げた。それは手紙であった。

 男のものと思われる筆圧の強い文字で書かれていた。

 一筆啓上から始まって、以下次のように記されていた。

 わけあって娘を一晩預かることにした。

 娘は元気であり、明日には帰すから心配には及ばない。

 ここでは、娘を預かるいきさつについては割愛させていただく。

 ひとこと言っておきたいのは、親のせっかんによって、これ以上、娘の心を傷つけないでもらいたいことだ。このままだと、無力な幼い娘は生きるすべをなくしてしまうだろう。

 この先、承知してもらいたいのは、娘が家に帰った後で、叱ったりしないでもらいたいことだ。ゆめゆめ手を上げるようなことはしないでもらいたい。そう記してあった。

 おみよの手紙を持つ手が、怒りで震えた。