賽銭泥棒(15)

(2020年11月29日 付)
作・荒川眞人(あらかわ・まひと)
1955年名古屋市生まれ。2008年住友生命情報誌ショートコンクール優秀賞、16年四日市文芸賞エッセイ部門奨励賞、17年同小説部門奨励賞。三重県四日市市住。
絵・斎藤昇(さいとう・のぼる)
1946年秋田市生まれ。岩手大特設美術専攻科修了。87年度県芸術選奨。90年自由美術展平和賞。95年安井賞展出品。自由美術協会会員。秋田市住。

 弥平治には、その意味するところが分かった。

 それを最後に、後ろを見なかった。

 背中で、焼かれて次から次へと家屋の板組が崩れ落ちる。

 階段の前までたどり着き、踏板に足を掛けた。炭のような状態となった踏板は、人間の身体を支えるだけの強さをなくしていた。踏板が音を立てて真っ二つに割れた。その下に続く踏板も同じだった。目を閉じて悲鳴を上げた。

 弥平治の尻は落下するたびに、ぼろぼろになった踏板を次から次へと割った。一段一段と滑り落ちるたびに、尻に衝撃が走った。

 ただ、おとしだけは抱きしめたまま離さない。おとしのほうも弥平治の胸にしがみついている。

 どすん―という最後の衝撃が弥平治の尻に走った。店の土間に尻もちをついた。これまでになく痛いものだった。

 弥平治はおとしを抱いたまま、前のめりになりながら戸口を駆け抜けた。

 

十一

 

 少し強いが、早朝の風は妙に心地よかった。

 四日市宿の南のはずれに位置する旅籠から、菅笠をかぶった弥平治とその腕に抱かれて眠るおとしが出てきた。材木問屋の松吉がその後についた。三人は東海道を西へと歩き出した。

 弥平治の頬や髪には昨晩の火事で受けた火傷の痕が残るが、着物は新しい物に代わっていた。腕に抱かれるおとしの着物も同様である。松吉が旅籠の女将に金をつかませて、着物を調達させた。

 昨晩、火事から逃れた弥平治は、おとしを抱いてやみくもに野次馬を押し分けていた。すると、背後から肩をつかまれた。火をくぐり抜けたばかりで、疲労困憊の弥平治にとっては、剛力でつかまれたような恐怖を感じた。誰かと見返すと、それは松吉であった。

「ここからは、あっしにお任せください」

 弥平治をまっすぐに見る松吉の目は、もう逃さない、大阪での務めをきっちり果たしてもらいますよ、と言っていた。

 

 松吉に引っ張られて、火事場から逃れる前、弥平治はおとしを抱いて命からがら火の中から逃れた。満身創痍の弥平治に、野次馬たちから、やんややんやの喝采が浴びせ掛けられた。

 耳元では、威勢のいい号令がかかった。火消したちが駆けつけて、まさに火事場へ飛び込もうとしていた。掛け声もろとも、延焼を抑えるため、刺又(さすまた)や鷲口(わしぐち)を振り上げ、燃え盛る水澤屋を叩き壊しにかかった。

 源五郎が駆け寄ってきた。

「おめえ、大丈夫か。おとし坊は平気か?」

 おとしは、弥平治の胸に抱かれて死の危険から逃れた反動からか、穏やかな顔をして眠ったように目を閉じていた。

 源五郎は目を細めて、「おめえは大したやつだ」

 そう言うと、弥平治の、煤けて穴の開いた肩を叩いた。

「痛ぇ!」弥平治は思わず悲鳴を上げた。

 全身火傷だらけで、どこを触られても痛い。だが、そんなことはかまっていられなかった。おとしを連れて、早くこの場から立ち去らねばならない。

 弥平治が野次馬をかき分け、進もうとすると、行く手をふさぐように現れたのは、おみよだった。蒼白になった顔を怒りで震わせて、通せん坊をするように立ちはだかった。

「お待ち。あんた。火事場からおとしを救って、お殿様気分かい。こんな娘なんかに命をさらして!」

 おみよは、弥平治の腕の中にいるおとしを睨みつける。

 おとしは母親に名前を呼ばれて、ついとおみよのほうに顔を向けた。おみよと目が合うと、次には痙攣したかのように身体を震わせ、弥平治の胸にしがみついてきた。

 その場に、慌てて源五郎が入る。

「待て、待て、おみよさん、この兄さんはおとし坊を命からがら助けてくれたんだ」

 憤怒したおみよは、割って入ろうとする源五郎の身体を遮る。

 弥平治に向けて言葉の暴力を突きつける。「こいつは、おとしを攫おうと夜な夜な、引っ張り回した男だよ。それにさ、怪しいじゃない。あっちこっち、ふらふらしてさ。賽銭泥棒もしてんだろう!」

 賽銭泥棒のことを口に出されて、弥平治は源五郎の顔を見る。源五郎は困ったように黙る。

 すると、おみよはおとしの身体に腕を伸ばし、弥平治から引き離そうとした。「さあ、おとし来るんだ! おまえという奴は! 家に火をつけたのもおまえだろう!」

 ぎゃぁぁぁぁ―。おとしが、周りの野次馬たちを仰天させるほどに、大きな声で泣き出した。

 蒼白になったおみよは、狂ったように奇声を上げた。

「この娘、殺してやる!」

 いきなり髪から簪(かんざし)を引き抜き、拳で握りしめた。

 弥平治はおみよの本性を見て、これまで以上にしっかりとおとしを抱きしめた。源五郎がそこで、素早くおみよの腕を取り、簪が振り下ろされるのを防いだ。

「おみよさん! 落ち着くんだ」

 源五郎のそんな言葉など、耳に入らずに、おみよは岡っ引きの腕の中で暴れた。

 手を焼いていると、いきなり、おみよの動きが止まった。弥平治もその動きの変化に目を見張った。おみよが誰かを見ている。

 目線の先を追うと、多くの野次馬の中に塩問屋の英輔を見たのだ。英輔はおみよと目が合うと、こそこそと人混みの中に紛れた。

 おみよは英輔がいなくなると、悲鳴を上げた。これまで以上に、狂ったように源五郎の腕の中で暴れた。

 源五郎は弥平治を見て、小さく首を振った。二人が目を見合わせたのは短い時間であった。お互いが、小さくうなずいた。

「ごめんなすって」弥平治はそう言うと、おとしを抱いたまま火事場から立ち去ろうと、野次馬たちをかき分けた。その時松吉に腕を引かれた。

 

 おとしを抱いて歩く弥平治に、松吉が後ろから話し掛ける。

挿し絵

「弥平治さんが大阪に戻ってくださったら、女将さんも胸のつかえが下りるってもんですね」

 そんな松吉の言葉を聞いて身が縮こまる思いだった。

「おいらに材木問屋の跡継ぎが務まるか?」

 弥平治が不安を漏らすと、松吉が小さく笑った。

「弥平治さん。あなたは火の中、命を顧みず、おとしさんの命を助けたんですよ。そんな勇敢な男に問屋の仕事が務まらないわけがないでしょ」

 松吉にそう言われ、弥平治はくすぐったい思いだった。

「で、そのおとしさん。店に連れていってどうなさるおつもりですか?」

 松吉に『おとし』と名前を出されていたことで、弥平治の腕に抱かれているおとしの目が覚めた。

 ぱちぱちと瞬きをした後、大きな目を見開いて弥平治を見る。

 弥平治はおとしに笑顔で返した。

「おとしは、おれの娘として大阪の材木問屋で育てるよ」

 その言葉におとしが弥平治の胸に抱き付いた。

「おとし、もう辛い思いしなくていいんだよね」

 ひくひくとおとしが泣き出した。

 後ろから松吉が鼻をすすった。

「そりゃあ、いい。うちの問屋ではおめでた続きだ。跡継ぎ息子が帰ってくるだけでなく、娘を連れてくるなんて」

 胸にいる、おとしが泣き顔で弥平治を見上げた。

「おとう」小さな口が小さな声で弥平治のことをそう呼んだ。

 堪え切れず、弥平治の目からは大粒の涙がこぼれてきた。ぐいっとおとしを強く抱きしめた。

 その後、おとしは小さな声でこうつけ加えた。

「賽銭泥棒のこと誰にも言わないよ……」

 弥平治の涙がぐっと途中で詰まった。

「おとし……、おまえってやつは」

 照れ笑いを浮かべると、弥平治はこれまで以上にしっかりとおとしを抱いた。

 おとしが弥平治に言った会話の内容を知ってか知らないでか、後ろで松吉が涙声で言った。

「さあ、大阪へ帰りますぞ。一日じゃ無理ですから、どこかの宿で二拍は泊まりますよ」

 弥平治は西の山々を見た。

 大きく澄み渡った空の下、御在所岳と鎌ケ岳が尖っていた。この景色には、この日のように、少しばかり強い風が似合う。

 雲が次々と形を変え、山々を駆け抜けていく。東海道の旅人に、さあ前に進みな、と力を与えてくれる。

 〈終わり〉