季語の情感を楽しむ

(2020年9月21日 付)

 〈トランプを切る指先がもう女〉(秋田市の山田澪子さん作)は、昨年の県川柳大会の秋田魁新報社賞の作。少女の指先に大人の女らしさを見出したところに川柳らしい着眼を感じます。同じ場面を俳句に詠んだら、たとえば〈トランプを切る指先も夜長かな〉や〈トランプを切る指先や秋の風〉のように、季節の情感を詠みこみます。

 川柳も俳句も俳諧という江戸時代の庶民文芸から発達した詩形です。俳句のルーツは季語を伴う発句(ほっく)です。川柳のルーツは季語の有無を問わない(より自由度の高い)付句(つけく)です。そのような歴史的経緯から、俳句では約束事として季語を詠みこむことになっています(ただし、例外的にすぐれた「無季」の作品も存在します)。

 季語を使うためには文字数のやりくりが必要ですし、そもそも季語が何かを知っていなければならない。季語があるので俳句は敷居が高いと思っている方も少なくないと思います。そこで今回は、季語の入っていない作品に季語を入れる添削を試みます。

省略した言葉を別の言葉で言い換える

観覧車子供の頃は空近く

 京野純さん(秋田北高2年)の作。観覧車を見ると、子供の頃に遊園地で遊んだことを思い出す。記憶の中の空は何となく近かったような気がする。季節を特定しなくても、無季俳句あるいは川柳としても十分に魅力的な作品です。

 ここでは俳句の約束事にしたがって季語を入れてみましょう。「天高し」という秋空や、寒々とした冬空、ギラギラとした夏空は「空近く」と合わない。空が近いという感じは、多分、春でしょう。

 手っ取り早く「春」を入れると〈観覧車子供の頃の春の空〉となりますが、「近く」が消えてしまいます。「近く」を残すなら〈観覧車子供に春の空近く〉となりますが、この案では、子供だった頃の思い出という意味が消えてしまいます。〈思ひ出の春空近し観覧車〉(新仮名なら「思い出」)とすれば形は整いますが、何となく物足りません。そこで

観覧車に子供の我や春の空

としてはどうでしょうか。「近く」は消えますが、回想の中で子供だった自分が観覧車に乗って空に近づいてゆくのです。「観覧車に」は六音ですが、字余りは気になりません。

さまざまな構成を考える

居間に椅子陣取っていた祖父の墓

 大谷詩穂さん(能代松陽高2年)の作。墓参り(初秋)の句です。「陣取っていた」という生前の姿が想像され、軽いユーモアも感じられます。足腰の弱った祖父は自分専用の椅子を、畳の間に持ち込んでいたのかもしれません。

 墓参りを季語に使うときは、歳時記にある「墓洗ふ」「墓掃除」「墓参」などを用います。「居間に椅子を置いて陣取っていた祖父の墓に参った」という内容ですが、「陣取って」は消せそうです。居間と椅子と祖父を残し、下五にたとえば「墓洗ふ」を入れれば句になります。

居間に椅子を置きける祖父の墓洗ふ

あるいは

居間の椅子にありける祖父の墓洗ふ

(「ける」は過去・回想を表す助動詞「けり」の連体形)とすれば形は整います。

居間の椅子にありける祖父や墓洗ふ

と、中七を「や」で切ってもよいと思います。ここで発想を変えてみましょう。ありし日の祖父が座っていた椅子が今も居間にあるとすれば

今も居間に祖父の椅子あり墓洗ふ

も考えられます。

 季語を含めた一句の構成をいろいろ考えるのも案外楽しいと思います。

さあ、あなたも投稿してみよう!