思わず心で呟く「か」

(2022年9月19日 付)

 鉢たゝきあわれは顔に似ぬものか 乙州

 

 作者は芭蕉の弟子。「鉢たたき」は鉢などを打ち鳴らしながら念仏修行で歩く僧のことで冬の季語。その念仏にはもののあわれを感じさせる趣があるが、僧の顔を見ると、あわれという言葉には似ても似つかない(たとえば真っ黒に日焼けした精悍=せいかん=な顔)。「似ぬものか」の「か」は、おやこんな顔だったのかという驚きを表します。

 

 こがらしに二日の月のふきちるか 荷兮

 

 この作者も芭蕉の弟子。三日月より細い二日月が木枯らしに吹かれている。月が本当に吹き散るはずはなく、比喩的に、吹き散るかのように、と言ったのです。

 

 是がまあつひのすみかか雪五尺 小林一茶

 

 自分の最後の住み家になる場所に雪が五尺つもっている。「つひの栖か」は、ここで自分は死を迎えるのか…と嘆息しているのです。

 「似ぬものか」「ふきちるか」「つひの栖か」と同様の「か」は、自由律俳句にも見られます。

 

 笠も漏り出したか 種田山頭火

 うしろすがたのしぐれてゆくか 同

 すッぱだかへとんぼとまらうとするか 同

 

 糸瓜へちまが笑つたやうな円右が死んだか 尾崎放哉

 漬物桶に塩ふれと母は産んだか 同

 

 山頭火、放哉の「か」は心の中で呟(つぶや)くような「か」です。

 俳句の「か」は日常会話の「か」と同じです。たとえば「また鮭(さけ)か」のように。江戸にやって来た飛騨の甚五郎は、居候先の大工政五郎の女房に向って「また鮭か。鰤(ぶり)はないのか。富山の鰤はうまいぞ」とワガママを言って怒らせます(落語「三井の大黒」)。「鰤はないのか」は形の上では疑問ですが、江戸の大工の家に鰤があるはずはありません。「何だ、鰤はないのか」という心持ちです。膳にあるのは鮭ですから、「鮭か」も疑問ではなく、「今日もまた雨か」と同じ嘆息しながらの「鮭か」なのです。さて、今回は「か」を用いた投稿句を見てみましょう。

目立たない助詞を選ぶ

降りてくる名残の雪はいつまでか

 佐々木美月さん(潟上市)の作。雪国も春になると「名残の雪」が降るのでしょう。「いつまでか」は、雪国の作者だと思うと、雪の季節が早く終わってほしいのかとも思いますが、「名残」という言葉は雪との別れを惜しむかのようでもあります。そういう微妙なニュアンスを託した「いつまでか」なのでしょう。

 細かいことを言うと「雪は」の「は」が目立ちます。「も」のほうが無難でしょう。「降(ふ)りてくる」は「降り来たる」としたほうが読みやすいでしょう。

降り来たる名残の雪もいつまでか

思いをはせる「か」

たばこ屋の凌霄のうぜんの花咲く頃か

 松本真理子さん(京都市、65歳)の作。「か」を使わなければ「たばこ屋の凌霄の花咲きにけり」「たばこ屋の凌霄の花咲いてをり」と書くのでしょうけれど、それでは「頃か」のニュアンスが出ません。「頃か」と言ったのは、花を見ていないからです。見ていなくても、この時期になればタバコ屋のノウゼンカが咲くことを作者は知っているのです。思い出の情景か、近所の情景か、じっさいに見ていなくても、ノウゼンカが咲いている様子が目に浮かぶ。…というようなことが「咲く頃か」の「か」から読み取れるのです。